強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

黒い感情の消化不良

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

随分と久々のブログ更新になりました。昨年は母が亡くなったこともあり、全く余裕がありませんでした。

母が亡くなってから半年が程経ちましたが、寂しい気持ちや虚無感は大きいです。

また10年ぶりに神経症の症状が少し出ています。もう随分前に克服したと思っていましたが、大きなストレスにより古傷が開いたといったところでしょうか。

とは言え日々やるべきことが無くなってくれるわけではないので、少しずつ心身を回していくしかありませんね。

 

今回は最近よく考える、「心の毒・黒い部分」の発散について書いていきたいと思います。

 

 



 

1、心の毒・黒い部分とは?

私が考える「毒・黒い部分」とは野生や攻撃性のことであり、生き物である以上、誰もが持っているものだと思っています。

どんなに優しい人、誠実な人でも間違いなくこの部分はあるでしょう。ただこの部分をあけっぴろげに出すと問題になることは皆わかっていますから、出す場所をわきまえていますよね。

当然この気持ちに塗りつぶされて人に危害を加えたり、自分が辛くなってしまうのは問題ですが、多くの人がこれらの気持ちを適度に消化(あるいは昇華)しながら、日々生活していると思います。

 

私個人としてはこの適切な消化方法として、真っ先にスポーツが浮かびます。

大声を出す、走り回る、盛大に悔しがったり喜ぶ、そして自分自身の手応えや仲間との一体感を感じることで、これらの気持ちを適切に消化してきたように思います。

もちろん人によって手段は様々で、中には文学や音楽、絵画等により、作品として昇華している人もいるのでしょう。

 

ただ私はこの消化が最近適切に出来ていないと感じていて、それは心身の健康によろしくないと感じています。

 

 

2、何故出来ていないのか

私はこの点に関して思い当たる原因として、

母が亡くなったこと

コロナ感染症の影響

があると思っています。

 

 

①母が亡くなったこと

母は約5年程前にがんが見つかり、約3年半程抗がん剤治療を行ってきました。

そして一昨年の秋頃に緩和ケアに入り、そこから約1年程頑張ったという感じです。

 

母にがんが見つかったのは、前職を退職してからすぐの時期で、発覚時には既に完治は難しい、年内すらもたないかもしれないという状態でした。

その後は母の治療と生活をサポートしていましたが、コロナ禍ということもあり、家族と密な時間を過ごすことに繋がりました。

良いか悪いかは別として何年も母中心の生活でしたから、母がいなくなったことで大きな穴が開いてしまい、寂しさや虚無感で、とにかく疲れたという状態なんです。

そして以前は母と会話することで整理出来ていた気持ちが消化出来ない、それなのに新しいモヤモヤはどんどん溜まっていく一方で、色々煮詰まっている気がします。

 

 

②コロナ感染症

母はコロナ重症化リスクがとてつもなく高い状態でした。

肺がん、間質性肺炎血栓症抗がん剤副作用、高齢、免疫力低下等々、感染すれば命に関わると言われていました。

また父も重度の呼吸器疾患があり、私は外出自粛を徹底していました。

 

昨年5月にコロナの分類が変更されましたが、私にとってはリスクは高いままであり、むしろ皆の意識や行動範囲が変わったことで、感染リスクは上がったと考えています。

コロナに対する考えは人それぞれだと思いますが、私にとっては感染対策を徹底しなければという状態でした。

そんなこともあり一番の趣味であるバドミントンに参加しなくなったのです。

その分小さな楽しみを大切にしたり、ランニングを始めたりしましたが、やはり以前と比較して行動範囲が狭まり、人との繋がりも薄くなってしまいました。

その為以前のように、感情の消化や発散が上手く出来ていないと感じます。

 

 

3、毒を消化出来ずに自分に起こってきた変化

これはいくつか思い当たりますが、まず第一に怒りっぽくなってきたように感じます。

皆さんも「仕事や家庭が大変でも、これがあればなんとか乗り切れる」というものがあると思いますが、私にとって正にそれがなくなってしまったのです。

そうすると心の老廃物を外に出せていないような、不快感が溜まっていきます。

すると次第に小さなことにイライラしやすくなります。「他の人は普通に遊んだり旅行したりしている。危機感が足りないんじゃないか」等、毒づくようにもなりました。

活動自粛を決めたのは自分の意思だったはずなのに、どんどんイライラするようになってしまいました。

 

また不安感一つのことが気になってしまう状態も出てきました。

元々心配性な性格ではありますし、過去とらわれの症状である神経症(強迫性障害)にずっと苦しんでもきました。随分前に克服したつもりではいましたが、心身の流れが悪くなったことや大きなストレスを受け続けた影響か、そのとらわれが強くなったように思います。

 

 

4、解消の為に取り組んでいること

ただ私もこの状況が自分の心身の健康にとって、非常に良くないことはわかっています。

とは言え焦りと不安の中でいつ母の容体が急変するかもわからない毎日。この状況が続けば自分は狂ってしまうと本当に思いました。

ですが人との接触を避け、行動範囲も狭めた状態では、なかなか気分転換は出来ません。

このような状態で少しでも事態を改善するには何をすればいいのだろうか。そんなふうに悩みながらも続けていることがいくつかあります

 

 

①資格試験の勉強

母の状況が思わしくない状態が続いている。世にはコロナが蔓延している。自分には仕事が無い…これらを抱える状況は、毎日がとてつもなく苦しいです。

かといってすぐさま現状を変えることは難しい。どうすればいいんだ。

 

そして私は再スタートする時の為に、今この制限された状況でも出来ることをやろうと考えました。そしてある国家資格試験を受験することにしたのです。

今までもいくつか資格を取得してきましたが、今回受験する資格は難関資格の一つです。幸い受験資格はあるものの、独学では厳しい。でも母の事態がいつ急変するか分からない為、毎日専門学校に行くのは厳しい...

そして悩んだ末専門学校の通信を受講することに決め、コツコツと勉強を始めました。

やはり苦しい中でも、少しでも何かをやっている手応えが欲しい、これがどのような未来に繋がるかはわからないが、何か少しでも成長している実感が欲しいと感じたからです。

 

普段から学校や会社等、行くべき場所ややるべきことがある人、自分を必要としている人がいることを実感出来ている人にとっては気にならないことかもしれませんが、私のような状況にいる人にとっては、とても大切なことだと感じています。

 

 

②運動の継続

私はコロナ前、少なくとも週に1日はバドミントンをやっていて、参加しない日もランニングや筋トレ等、運動量についてはある程度確保出来ていたように思います。

ところが自粛を始めてからは運動量・行動量が急激に落ち、更には友人と話す機会も減ったことでストレスが大きくなり、このままでは体調悪化に一直線だという危機感を持ち始めました。

そのような危機感から、youtubeの動画で意識して運動する習慣を作り、土日には散歩やランニングも始めたのです。

そして運動する習慣が定着してくると、生活リズムも少しは整ってきたように思います。やっぱり体を動かした後って、汗と共に心の毒素が抜けていく感じがしますね。

やっぱり体を動かしてこそ心も円滑に流れていくと思いますので、この習慣はこれからも続けていきたいと思います。

 

 

③小さな楽しさを大事にする

この「些細な、小さな楽しみを大切にすること」は、自分にとって本当に大切な支えとなってくれました。

 

「今日はあの雑誌の発売日だ」、「これが終わったらゼルダの新作をやろう」、「スマホゲームのイベントが来週始まる」等々、本当にささやかな楽しみです。

でもそんな小さな楽しみを大事にすることは、とても苦しい中で確かに自分を支えてくれる存在の一つでした。

これなら人と接触することもないし、何かあった時すぐに病院に駆けつけることも出来る。そして何より自分のペースで楽しむことが出来ます。

本当に大変な時って「気分転換に旅行に行こう」とかも出来ませんよね。そんな時は少しでも気が紛れて現実逃避が出来るもの、そして始めるハードルが低いことが重要です。そしてこれらは多ければ多い程、自分を助けてくれる気がします。

 

 

5、優しさや喜びだけでは処理出来ないもの

私は母が病気になってから、母を始め大切な人と過ごすことが出来るありがたさ、自分を心配してくれる人の存在等、何気ないやりとりや人の心遣いの中に、じんわりとした幸せを感じることがありました。

そして今の私の状況が「ある意味恵まれているものなのかもしれない」ということにも気付きました。

でもそれでもやはり処理出来ていない感情や、行き場を求めている気持ちが体の中にあることも強く感じるのです。

 

具体的に挙げてみると

攻撃性の消化不良

満足感の未達成

嫉妬や後悔等の処理不足

等の黒い感情の扱いです。

 

そして「自分はなんて未熟なんだ」と自己嫌悪に陥り、それがまた黒い感情を大きくするという悪循環です。

これらの感情を適切に処理することは、私にとっては恐らく大切なことで、それは「日々優しさに包まれていれば問題にならない」ものではなく、別のベクトルできちんと消化していかなければならない類のものであると考えます。

恐らく全ての人がこれらの感情を意識的にしろ無意識的にしろ、適切に処理しながら過ごしているのだと思います。

でも余裕がない時間が長くなればなるほど、これらの感情の解消は難しいです。

 

私は自分で言うのもなんですが、どちらかというと優しいほう、誠実なタイプのほうかなと思います。本当に自分で言うのもなんですが...(笑)

でもそれでもこのような気持ちや感情が、とてつもなくお腹に溜まっていて、それが消化不良を起こしているような気がします。

やはり心身の健康に大切なのは「新しいものを取り入れて、古い物を出す」という新陳代謝、循環だと思いますから、なんとかこの感情と適切に付き合っていきたいと思っています。

 

 

6、最後に

記事を書きながらも思ったことですが、やはり感情と適切に付き合うって難しいですね。

これが公私共に上手くいっている時であれば、このように深く考える必要はないのでしょうが、苦しい時・余裕が無い時にこそこれらの気持ちと向き合うことになります。

でも私の好きな曲、ミスターチルドレンの「終わりなき旅」の中に「胸に抱え込んだ迷いがプラスの力に変わるように」という歌詞がありますが、私はそれを胸にコツコツと出来ることをやりたいと思います。

ずいぶん時間がかかってしまったので取り返せるかわかりませんが、「これだけ苦しい想いをしたんだから、少し位楽しい未来があってもいいんじゃない?」と思っています。

人生平等とはさすがに思いませんが、禍福は糾える縄の如しであって欲しいと思います。

 

今いる場所でちょっとだけ行動範囲を広げるってのも、まだまだ出来るはずですよね。

今辛い人こそ、「ティアーズオブザキングダム」をやろう!

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

遂にゴールデンウィークが終わってしまいましたね~。

今年のゴールデンウィークは、例年と比較して行動範囲を広げた人も多いのでしょうが、私は相変わらずの自宅中心の生活でした。

とは言えその分資格の勉強も出来ましたし、ゲームをやったり、片付けをしたりと、地味ではありますが、比較的充実していたような気がします。

 

さて今日は神経症とは関係のない、ゲームの話をしたいと思います。

テーマは5月12日(なんと今日!)に発売される、ゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム」についてです。

 

正直メチャクチャ楽しみです。大人になってからゲームの発売日にこんなにワクワクするなんて思いませんでした。

今回は楽しい気持ち100%で書いているので、少しでも楽しい気持ちになっていただければ幸いです。

 

 

 

1、前作「ブレスオブザワイルド」について

以前このブログで「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」について書きました。

yoneson.hatenablog.com

 

これは最早ゲームの域を超えた、とてつもなく素晴らしい作品です。

このゲームを初プレイした当時、私はとてつもない閉塞感を感じていました。

母の病気、コロナ、先の見えない自分の現状等、日々閉塞感を感じ、不安と焦り、後悔等、負の感情がドロドロと体に満ちていました

 

そんな時にプレイしたブレスオブザワイルド、あの時の感動と解放感は今でも覚えています。

広大な世界、そしてその広大な世界のどこにでも行ける圧倒的な自由度、目標達成に対しても決められたやり方はなく、自分の思うままに行動出来る。

私はこれまで特別多くのゲームをプレイしてきたわけではありませんが、それでも私のゲーム史上、確実に一位をとった作品です。

 

ゲームの中では時間が流れ、天候も刻一刻と変化します。決して行動しやすい日中・晴れ間ばかりではありませんが、それでも時間が経てば必ず夜は明け、雨は上がる。その時の美しさは本当に素晴らしいです。感動します。正直この歳になってゲームに感動するとは思いませんでした。

 

 

どうですか?この美しい景色の数々!

日々すり減っていく毎日でしたが、このゲームをプレイしている間は、心から解放感を感じることが出来ました。

 

 

2、ゲームが人を救う?

そしてブレスオブザワイルドに感動し、他の人の感想を見ていた時、ゲームとして面白いという評価はもちろんのこと、「救われた」というような記事も見つけました。

その中にはうつ病の方が、このゲームに救われたというような記事もありました。

私にはその感覚が少しわかるんですよね。

 

私が昔会社を辞めた直後、体調が最悪で何にも興味が持てない時期がありました。

そんな時ふと学生時代によく行っていたゲームショップで、ゲームの体験版をやってみたのです。

正直「いい年した大人がやるなんて恥ずかしいかな」とも思いましたが、プレイし始めると人目が気にならなくなり、子供の頃感じていた楽しい気持ちを久々に感じたのです。

その時「自分の中にも楽しいと感じる気持ちはまだ残っている」と思ったものです。

 

ゲームは面白ければそれでいい。それは間違いないと思います。ですがこのブレスオブザワイルドには、面白さを超えた魅力がたくさんあります。

解放感、没入感に加え、たくさんの気付き、自己肯定感の高まり等、多くのものをこのゲームは私に与えてくれました。

 

 

3、続編発売が待ちきれない!

そんな私にとって特別なゲームであるブレスオブザワイルド。なんと2023年5月12日にその続編が発売されます。

 

最初続編の開発が発表された時の私の感情は、まるで子供そのものです。「あんな楽しかったゲームに続編が出るのか!最高だ!」とドキドキワクワクですよ。

正直「この歳になってゲームの発売日にワクワクするのってどうなんだろう」って思うこともありますが、楽しみなんだから仕方がない!!

でもどうやら発売を心待ちにしているのは私だけではないようです。それどころか世界中に、発売を心待ちにしている人がたくさんいるのです。

こんな凄いゲーム、大人だって楽しみですよね!

 

 

4、最高のゲーム紹介映像

さてそんな続編のタイトルはゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム」というのですが、公式の紹介映像が本当に素晴らしいのです。

ちなみにそのトレーラーは3つあるのですが、特に3rdトレーラーは本当に素晴らしく、音楽と相まって私は涙が出ました。

 

この映像は今閉塞感を感じている人毎日不安や後悔に苦しんでいる人にこそ、見ていただきたいと思います。体がぞわっとするような感覚が味わえるかもしれません。

もうね、楽しみで仕方ないですよ。私の周りのゼルダ好きの友人も、発売日が近づくにつれソワソワしています。(笑)

 

そしてもう一つ、紹介映像に関連して興味深いことがあります。それは紹介映像を見た海外のファンの反応です。

Youtube等で「ティアーズオブザキングダム 海外の反応」と検索すると、紹介映像に対する海外ファンの反応動画が出てくるのですが、それがめっちゃ楽しいのです。

海外の方って大人でも感情表現が素直で、ゲームに対する喜びと期待を全身で表現しています。それを見ると心がとてもほっこりして、見ているこちらまで嬉しくなります。

このゲームを制作しているのは任天堂ですが、日本が作ったゲームが世界中で評価されていて、続編の発売を心待ちにしている人が大勢いる。そのことが誇らしくさえなります。

 

 

5、小さな幸せは大事

私は今苦しい中にいます。そして自分が果たすべきことを、果たせていないとも思っています。その為心から安心したり楽しんだりすることが難しく、いつもストッパーが働いているような気がします。

ですが今回自分でも「まるで子供だな」と思うくらい、このティアーズオブザキングダムの発売が楽しみなのです。最近は発売日に備えて、前作ブレスオブザワイルドを再プレイしています。(もう何週目になるか)

 

でもこういう小さな幸せって、人生にとって大事なような気がするんですよ。

旅行とかキャンプ等のような大きな趣味でなくとも、漫画やゲームの発売日にワクワクするといった、ささやかな喜びも素晴らしいものだと思います。

私は自分のこと、そして母の病気のこと等で、楽しいと思う余裕があまりありませんでした。思ってはいけないと思うことすらありました。

でも母が病気になり、何でもないようなことがとてもありがたいことだということに気付いた時、小さな楽しみを日常に感じることが出来るのは、とても素晴らしいことだと思うようになりました。

決して何かを成し遂げたわけではないのですが、小さな幸せを感じながら日常を生きていく。それもまた幸せの一つかもしれません。

 

 

6、最後に

結局何が言いたいのかわからない記事になってしまいました。(笑)

でもこんなに発売日が待ち遠しく感じるのはいつ振りだろうと思います。恐らく世界中で多くの人が、ソワソワしているのではないでしょうか。

 

今閉塞感を感じている人、もうずっと変われないんじゃないかと苦しんでいる人、そんな人にこそ「ティアーズオブザキングダム」の紹介映像を見てもらいたいと思います。

それを見たことで少しでも心や感情が動くようであれば、それはとても素晴らしいことだと思います。どんなに苦しい時にでも、楽しいと思う気持ちが自分の中にある証拠ですから...

 

ゲームの発売日にワクワクしながら、何とか日々を乗り切る。人から見たら「そんな小さなことで」と思われるかもしれませんが、そんな小さな喜びは、きっと人生に大切なものなのだと思います。

誰もが立ち止まる可能性がある社会だからこそ

皆さんこんにちは、もち丸です。

今日は私が常日頃思っている、「誰もが再スタート・方向転換出来る社会であって欲しい」ということについて、書いていきたいと思います。

その理由は自分の神経症や就活、母の看護を経験して強く感じたことからきています。

その期間を通じて、「人はやっぱり社会と関わっていくことでしか生きていけず、また社会と繋がることを強く望む生き物なんだな」と、実感しました。

 

 

 

1、自分が思っていた「当たり前」

私は18歳の時に神経症(強迫性障害)になり、それ以来ずっと人生の本流に乗れずに来たという思いがあります。

ただ後悔や恨みのようなものが大きいのも事実ですが、私はまだ恵まれている方なのだとも思います。お金がかかることはあまり出来ませんでしたが、なんだかんだで衣食住は確保出来、支えてくれる家族もいたわけですから。

 

私は昔から「こうあるべき」という思いが強かったように思います。

高校を卒業して、大学に入り、新卒で入社して出世しながら、結婚、子供が出来、家を買う…

そんな風に進むことが自分にとっての当たり前の未来だと思っていました。

でも朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でのセリフのような、いわゆる「日向の道を歩いていく」ことが出来なかったなぁと思ってしまいます。

 

 

2、満たされない中で気付いたこと

私は神経症になって良かったとはもちろん思いません。ですが病気になったことで多くのことに気付き、世界が広いことに気付きました。

 

私には体調を崩さなければ、絶対に知り合うことがなかった人がたくさんいます。

また世の中には様々な理由で休職や離職を余儀なくされた人や、障害や困難な状況を抱えながらも、自分に出来ることを見つけ、磨き、必死に生きている人がいることにも気付きました。

 

それは単純に多様性という言葉では表現出来るようなものではないように思います。

望む望まないにかかわらず、様々な状況に人は落とされ、また時には自ら向かうこともあります。

そのことは「普通に」過ごしていたのでは、気付くことはおろか気にすることすらなかったかもしれません。

 

 

3、誰もが立ち止まる可能性を抱えている

人生において何らかのアクシデント(事故・病気・家族の事情等)により、立ち止まることや方向転換を余儀なくされることは、本当に誰にでもありうることだと思います。

 

若い時、例えば学生時代では、立ち止まってしまう人はクラスの中で一人だけかもしれません。クラスの仲間は心配することはあるとはいえ、自分は問題なく進める人として進んでいきます。

ですが誰もが年を重ね、多くの経験を積む程に、アクシデントに遭う可能性は上がっていきます。そして誰もがある日突然「これまで通りの流れ」から外れてしまうことがあるのだと思います。

 

そんな時心配してくれる人もいるとは思いますが、多くの人にとってはやはり他人事です。自分のことに忙しく、余裕があまりないのかもしれません。

「大変だね。でも自分には何も出来ないよ」と思うのではないでしょうか。

 

そしてその日を境に、「それまで他人事だと思っていたことと、向き合わざるを得なくなる」のだと思います。

やっぱり自分が思うようにならない環境に置かれて初めて、当事者意識を持つのではないでしょうか。

 

私も自分のこれまでの経験を通じて、「誰もがある日突然そのような事態に陥ることがある。だからこそそのような事態にあったとしても、居場所があり、再出発出来る。そのような社会であってほしい」と心から思うようになりました。

 

 

4、誰もが社会に参加している

ところで今回この記事を書くにあたって、印象に残っていることがあります。

以前本屋に行った時のことなのですが、お店に障がい者施設の方が作ったしおりが販売されていて、その時「これを買えばその人にお金が流れるんだな」と思ったのです。

その時初めて「何を買うかを選ぶということは、誰にお金を流すかを考えるということなんだ」と気付いたのです。

 

もちろん私達にとって、商品やサービスの価格が大事だということは言うまでもないことです。

ですが仮に商品が誰かが搾取されながら作っている物ならば、その「悪の親玉(?)」にお金が流れるということです。

私はそんな人ではなく、丁寧に仕事をしている人、思いを込めて物作りをしている人にお金が渡って欲しいと思います。

 

資本主義社会についてここで触れることはしませんが、やはり人にとって社会と繋がり、社会の流れに関わり、世の中を回すことを通じてお金を得ることは、食っていく為であることはもちろん、人として当然の欲求(要求)なのだと思います。

 

 

5、つまづいて初めて気付くこと

下手な例えですが、例えば人は足を悪くして初めて、多くの人にとっては何でもない段差が邪魔だということに気付きます。あるいは逆に社会の中のバリアフリーや、助けてくれる人の存在に気付くことになるのかもしれません。

 

とにかく私は今再スタートをしようとしている人間です。その要因として自分が原因の部分もありますし、どうしようもなかったこともあると思います。

でも現実として今ここからやっていくしかないという、絶対的な事実があります誰にも代わってもらうことの出来ない、絶対的な部分です。

私はこれから身をもって、「つまづいても再スタートは出来る」ということを、自分で証明していかなくてはなりません。

学生時代なら「良い意味で」周りの流れに乗っていくことで、進んでいける部分があります。ですが私は今一人でやらなければなりません。

つくづく学生時代というのは、気付かなかっただけで、色々恵まれていたのだと思います。

 

 

6、主観だけでは見えないこと

人は恐らく年をとればとるほど、様々なものを多かれ少なかれ抱えていくことになります。もしかするとこれまでも自分が気付いていないだけで、苦痛や悪条件の中で、必死に生きていた人が自分の周りにいたのかもしれません。

皆今ある自分なりの制限された条件・不自由さの中で、なんとかもがいているでしょうか。

決して世の中はテレビやSNSで表されるような、綺麗なキラキラしたものばかりではないですよね。

 

もし「障がい者」と「健常者」を分けるようなボーダーがあるとするならば、多くの人が無意識にしろこちら側(健常者側)にいるという安心感のようなものを感じているのだと思います。

ですがその境界線は本当に曖昧なものです。そしてその「こちら側にいる安心感」は、ある日突然崩れ去ってしまう可能性があります。誰もがです。

だからこそボーダーの向こう側にいる人達は、自分にとって関係ない人ではありません。

 

とは言え物事は「障害を持っているから大変」というような、単純なものではないようにも思います。もしかしたら自分にとって向こう側にいると思っている人が、自分より充実した気分で日々を過ごしているのかもしれませんから。

 

 

7、最後に

私は神経症(強迫性障害)にかかってから、また治った後も満たされない想いをずっと感じています。

だからこそ「これまで通りに動けない自分」、「何かを成せていない自分」であったとしても、「人は人と繋がって、社会に関わって生きていきたいと思う存在」であると、強く思います。

だからこそ誰もがつまづいても再スタートが出来る、しやすい社会であって欲しいなと心から願っています。自分の為にもね(笑)

神経症は治るのか?

皆さんこんにちは。もち丸です。

最近底冷えするような寒い日がある一方で、少しずつ日が伸び春の兆しも出てきましたね。

私は四季の変化というものが苦手でした。誕生月である10月あたりから、寒くなるにつれて自分の焦りがとても大きくなり、季節の変化を楽しんでいる余裕がなかったからです。

加えて私は寒さや気温差に弱い為、「冬なんてなくていい。夏だけでいいのに」とずっと思っていました。

けれども最近は、「夏が終わると寒い冬は必ずやってくる。でも冬が終われば必ず春の兆しも出てくる」という、当たり前のことに深いものを感じるようになってきました。

「いい加減来てくれよ、俺の春」と思います。(笑)

 

さて今回は神経症は治るのか?」ということについて、私の考察を述べていきたいと思います。

神経症強迫性障害パニック障害等の真っただ中にいる人にとって、少しでも参考になれば幸いです。

(約5分程で読める記事です)

 

 

 

1、そもそも神経症って?

これまでブログでも書いてきましたが、私は17歳から30歳位まで、10年以上神経症(強迫性障害、心気症、パニック発作)に苦しみました。

今はそれらの症状は治り、「人よりも心配性」レベルにまで落ち着いたと思っています。まぁ心配性である以上、人よりも気になることは多いのは間違いないのですが。

 

それにしても神経症は本当にやっかいなものです。

「あれ、何か目に入ったかな」、「手に薬品がついたかもしれない」→「念の為洗ってスッキリしておこう。それで安心だ」といった思考です。最初は用心の為、念の為の確認や行為だったかもしれません。

でも次第に少しの異変、少しの違和感を無くしてスッキリしておきたいと思うようになっていきます。このあたりが神経症の入り口と言えるでしょう。そして今やっている作業や行動を全てストップして、100%の安心を得る為の思考・行動を繰り返すようになっていってしまいます。

このように一度神経症回路に入ってしまうと、最早念の為という生易しいものではなく、地獄のような悪循環にはまっていってしまうのです。

 

 

2、誰にでもある神経症への入り口

神経症は本当に地獄です。特効薬はなく、人に理解してもらうことも難しいです。

「どうしてこうなってしまったのか」、「どうすればこの地獄のような状況から抜けられるのか」...

これに対する答えは今沼にハマっている人にとって、一人で見つけることは本当に難しいと思います。

ですが今神経症に酷く苦しんでいる人にも、必ず神経症の悪循環にハマっていった入口や過程があったはずなんです。

私も神経症になった時は、他のやり方をとることが出来ませんでした。でも今の自分なら、もう少しましな対応が出来るだろうとも思います。

 

そして今思えることは、今神経症の地獄に陥っている人にとって大切なことは、今やってしまう「強迫思考+強迫行為」をスパッとやめるというよりも、その濃度を薄くしていく感覚だと思います。コップ一杯に神経症の塊が入っていれば濃度は濃いですが、同じ神経症の塊でもプールに入っていれば濃度はかなり薄くなるはずです。

やっぱりずっとハマり続けてきた「強迫観念+強迫行為」のサイクルを、急に明日から止めることは難しいと思います。人によっては曝露反応妨害法が効果を発揮するかもしれませんが、これは専門家の指導が不可欠だと思います。

私の感覚では自分が深みにはまっていったルートを、元来た道を辿るように戻っていく感じです。

必ず抜けられます。

地獄のような神経症に10年以上苦しみ、根性や客観的な視野を持っていない私でも抜けられたのですから。

ただし神経症にハマっていった道を戻る過程で、嫌な記憶や満たされなかった部分をもう一度見ることになります。これは正直かなり辛いです。

 

 

3、神経症的傾向のある人の強みとは?

ただ最近「神経症的性格は害にしかならない性格なのか」と、少し思います。

 

例えば「10の内9出来ていても、出来ていない1の部分が気になってしまう」。これって場合によっては素晴らしい資質、ビジネススキルになる可能性はないのでしょうか。

神経症に苦しんでいる人は、ひょっとして数値計算やチェックが得意ではありませんか?本や資料の誤字脱字を見つけるのが得意だったりしませんか?

例えば飛行機の整備に関して言えば、「まぁこのくらいでいいか」という姿勢では話になりません。そんな人が点検した飛行機には私は乗りたくありません。

あらかじめ想定される問題点を出来る限り洗い出し、小さな違和感や気になる点も無視せず、頭に入れておく。これは大変すばらしい傾向なのではないでしょうか。

 

ただし問題はその態度がコントロール可能かどうかということだと思います。そしてその姿勢を自分の意思で適切な対象に向けられるかということです。

とは言え…「それが出来たら苦労はしない!」ですよね~。

それが出来ないから泣きながら、絶望しながらも強迫行為をするしかないのですから。

 

 

4、神経症が永遠に続くことはない

私は医師でも神様でもないので、絶対治ると無責任に言うことは出来ません。

ですが今神経症強迫性障害に苦しんでいたとしても、今感じている苦しみから解放される可能性はあります。それどころかとても大きいと言えます。

 

今は全く良くなる気配を感じられず、死にたくなっているかもしれません。ですが世の中の全ては諸行無常です。良いことはずっと続きません、でもその代わり悪いことが永遠に続くこともありません。その長さは人によって違うとしても。

ですからどうか生き抜いて欲しいです。死なないで欲しいです。

生きている1分1秒が地獄なのが神経症です。でもこの地獄の先に、喜びが待っているかもしれない。「禍福は糾える縄の如し」と言いますが、「禍」の部分のだけで終わり、「福」の部分が人生に無ければ悔しいじゃないですか。苦しんだ人間は喜びがあってもいいじゃないかと叫びたいです。

私も何か一つ状況が違っていたら、今生きていなかったかもしれないと思うことがあります。その意味で私は恵まれていたのかもしれません。

 

 

5、最後に

私は一番最初17歳の時に初めて精神科医にかかりましたが、その際医師に「大丈夫、絶対に治りますよ」と言われました。

その時医師が心からそう思っていたのか、治療として必要だから言ったただけなのかはわかりません。当時は全くそう思えませんでしたし...

だから私も他の人にそう言うことは出来ません。無責任な言葉になりかねないからです。それでも神経症が治った人は大勢いるはずです。

 

神経症で毎日が苦しい時、無理に前向きになることは出来ません。家の中では肩身が狭く、近所の目も気になっているかもしれません。

ですが音楽でも漫画でもゲームでもなんでもいいので、それらに頼りながら何とか日々を生き抜いて欲しいと願います。

一つの出会い(物・人共に)で事態が動くことは大いにありえます。ですからその日が来るまで何とか生き抜きたいものです。このまま終わりたくはないですもんね。

 

神経症に苦しんでいてこの記事を見ている方が、少しでも良い状況に向かう事をお祈りしております。

グレートレースの選手がブランクから明ける時

皆さんこんにちは、もち丸です。

別ブログ「家族ががんになっても希望は消えない」では新年のあいさつをしたのですが、このブログでは2023年初投稿になります。

というわけで少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 

多くの人が新年の始まりに様々な期待や願いを込めると思います。そして皆それぞれの目標があるのではないでしょうか。

 

さて突然ですが私には長いブランクがあります。私にとっては焦りの種でもあり、コンプレックスでもあります。そこで今回はこのブランクを別の視点から見る為、前回のブログで述べた「グレートレース」と絡めて考察してみることにしました。

 

 

 

1、グレートレースは人生である

前回のブログでも書きましたが、私はグレートレースのような長丁場のレースが好きです。それは通常のスピードレースとは違い、その奥深さが人生そのもののように思えるからです。そして選択の重要性、速さや順位以外にも大切なことがあることを教えてくれます。

yoneson.hatenablog.com

 

さてそんな長距離レースは内容や距離は実に様々で、中には何日もかけておこなわれるレースもあります。その為他のレース以上に事前準備が重要視されるように思います。

もちろんレースである以上スピードも大事ですが、「どのルートを通るか」、「どこでどの位睡眠をとるか」、「持ち物はどうするか」等、様々な要素を考慮しなければなりません。

そしてレースで上を目指す人はもちろんのこと、出場・完走するという目標に対しても、体作り、体調管理等が短距離レースとは比較にならない程求められます。それは準備不足が順位だけでなく、怪我や生死にも直結しうるからです。

単純に頑張るだけでは足りない、自分を冷静に見つめ、「自分には何が足りてないのか」「大目標の為、次にしなければならないステップは何か」ということに、出場者は向き合うのでしょう。

そしてその姿勢は私のようにブランクがある人にとって、参考になる点が多い気がしたのです。

 

 

2、もしランナーがブランクを持ったとしたら…

そこで「グレートレースに出るような人が長いブランクを持ったら、どのように復帰するのだろうか」と想像してみました。

 

まず最初に浮かんだのは「いきなり長距離レースに出ることはありえないだろう」ということです。まぁある意味当たり前ですね。体作りやレースへの慣れ等たくさんの準備が必要です。

素人考えですが「短距離レース」→「中距離レース」→「長距離レース」→「超長距離レース」と、段階を踏んでいくのかなと思いました。

 

もしブランクの原因が病気での長期入院だとしたら、体全身の筋力が落ちていると思います。生活リズムも乱れているかもしれません。そのような状況ならばまずは日常生活が問題なく出来るような体・リズム作りが最初のステップとなるかもしれません。

そのような状態で焦りから「いや、俺はあのレースに出ないといけないんだ」と復帰を急いでも、レースで結果を出せないばかりか、さらなる怪我や自信喪失にも繋がりかねません。

悔しくても情けなくても、今の自分を見つめ、必要なことを積み上げていくしかないのでしょう。

 

文章にすると当たり前のことのように見えますが、自分が苦しい状況の真っただ中にいる時、冷静に判断することは難しいです。

やらなければならないことがあるのに、それが出来ない。そして次どんな一歩を踏み出せばいいのかが分からない。そんな思いから、私はこの空想をしてみました。

 

 

3、最初は簡単なトレーニングから

ブランクがあり体力が落ちている人の中には、毎日決まった時間に起き、決まった時間に就寝するというリズムが崩れている人もいると思います。

私はこの5年程、家族の看護にあたってきました。決して怠けていたわけではありませんが、それでもレースを走るのに必要な「筋力」等は落ちているはずです。

 

この時入院中のランナーだったらどうするんだろうと考えてみました。

「まずはベッドの上で器具を使って握力を鍛えるのだろうか。いや理学療法士の力を借りて、筋トレやストレッチをするかもしれない。そして退院後はまずは散歩、慣れてきたらジョギングって感じかな」

最初はあまりの体力のなさにショックを受けるかもしれません。でもいきなり以前のような長距離レースを走れるわけがないこともわかっている。焦るけど徐々に力を取り戻していくしかないのかなと思います。

 

復帰までの道はとても長く、途中でくじけることも多いかもしれない。それでも長年ブランクがあった人がグレートレースのような超長距離レースに再チャレンジする為には、様々な準備が必要になるでしょう。

大きな目標の為には、小さいステップを経ていく必要があるのは間違いなさそうです。

 

 

4、短距離レースと超長距離レースの違い

グレートレースのような長丁場のレースは、通常のマラソンとは性質が大きく違っていそうです。

フルマラソンはアスリートでは2時間台、一般人だとかなり幅がありそうですが、長くとも半日はかからないレースだと思います。もちろんフルマラソンも過酷なレースであることに間違いはないと思いますが。

 

フルマラソンでは途中水分補給することはあっても、レース中に食事や着替え等を持ち運ぶことはありません。コースも定められたものであり、途中休憩や睡眠等をとることもありません。

それに対してグレートレースは数日間かけて行うものもあり、休憩や食事等も含めたレース展開を考えなければなりません。つまり限られた時間走り続ける体力だけでは不十分なのです。トラブルに対処する力、地図を読み込む力、サバイバル技術等、スキルに加えて「自分の状況を冷静に捉え、次の行動を決断する判断力」も重要です。

 

もし人生が短距離レースならブランクは致命的かもしれません。ですが人生は恐らく長く複雑なものです。だからこそブランクがある人でも、レースに再チャレンジする機会があるのかもしれません。

 

 

5、最後に

なんだか何が言いたいのかハッキリしない記事になってしまいました。(笑)

ただこの記事で私が確認したかったことは、ブランクに対応する為には、単なるやる気や覚悟だけでなく、次に走るレースを見据えた現実的で段階的な準備が重要だということかもしれません。そしてブランクが長ければ長い程、準備や準備運動を入念におこなわなければならないのかなと思います。

 

ブランクがある人にとって、焦りや不安、後悔等を感じるのは当然です。ただもし今の自分に出来ることがベッドの上で握力を鍛えることしかないとしても、その努力は次のステップに繋がるのではないでしょうか。

他の人が楽々やっている(ように見える)練習が出来ない自分、レースに参加出来ない自分に苛立ち、嫉妬し、何も出来ない日もあります。

でもそんな苦難の時期を超えて次の舞台に立てた時、そんな自分を誇れる時が来ると信じたいです。

 

グレートレースで私が魅力を感じるのは、圧倒的な成績で優勝した人だけではありません。「怪我や病気を乗り越えレースに戻ってきた人」、「ボロボロになりながらも確かに進みゴールした人」、「考え抜いた末に棄権を選択した人」…本気でレースを走った人は私から見ると皆魅力的です。スマートにレースを乗り越えた人がだけが魅力的なわけではありません。そう思います。

 

さて私も少しだけ頑張りますか。

人生はグレートレース。 「まだ終わりじゃない!」

皆さんこんにちは。もち丸です。

今日はNHKで放送される、「グレートレース」に関する記事を書きます。

このグレートレースはフルマラソン以上の100km越え、時には何百kmものレースになることもあります。

私はこのグレートレースが凄く好きで、ただ単にスポーツとしての魅力にとどまらず、人生を考えさせてくれます。

「まだ終わりじゃない」、「自分だけが進めていない」、そんな悔しさを感じている人に是非見て欲しいと思います。

 

 

 

1、グレートレースとは?

私はNHKで放送されている「グレートレース」や、先日放送された「激走!日本アルプス大縦断」のような長距離レースを見るのが好きです。

その理由は長距離レースはまるで人生のようで、レース自体の魅力はもちろん参加者の背景や考え方にとても励まされる思いがするからです。

 

山や森等の大自然の中を何百kmも走るレース、一歩間違えれば落下してしまう細い稜線、深い霧の影響で前も後ろも足元も見えないような道等、本当に過酷な道を彼らは走ります。もはやそれは道とも言えないような場所ですらあります。

もちろん過酷なレースでは最低限安全を確保する為の仕組みは整えられていますが、それでも命の危険や大けがの可能性は確実にあります。それでも彼らは走ります。そしてそれはまるで人生そのもののように思えます。

 

 

2、長距離レースは若さ・速さだけでは勝てない

比較的短いレースであれば、速く走れる人若い人が勝つ可能性が高いです。ですが長距離レースになればなるほど、序盤に速かった人が勝つとは限らないようです。

何日もかけて行うレースですから、睡眠や食事もレース中に自分の判断でとらなければなりません。そして若く体力に自信がある人の中には、「自分は大丈夫」と休息をとらずに先に進む人もいます。

ですが回復に時間を割かなかった人は、後々低体温症や低血糖等で一気にペースダウンしたり、最悪の場合レースの棄権に陥るケースもあります。

 

このような長距離レースを最後までレースを走り切る為には、普段からトレーニングを積んでいることはもちろん、自分のコンディションやレース環境を冷静に捉える力が求められます。場合によっては嵐が過ぎるまで待つことや、態勢を整える為に道を引き返すことが必要かもしれません。明らかに「頑張るだけでは足りない」のです。無理して頑張った結果、大けがや命を落とすことになっては元も子もありません。

 

もちろん出場者は長い時間をかけてレースに臨んでいます。その為根性でどうにかなる問題ならば、彼らは最後まで止めるはずがありません。そんな彼らが全ての要素を総合的に判断して棄権を選択した時の姿は、最後までゴールした人と同じくらい胸に来るものがあります。

 

 

3、レースの中で出会うもの

グレートレースでは最初遅れているように見えても、自分の状況と環境をしっかりと見据えている人が最後に勝つことも珍しくありません。

また例え優勝出来なかったとしても最後まで走り切った結果、満たされる人もいますし、レース中に素晴らしいものと出会う人もいます。正に人生のようです。

また過酷なレースでは他のランナーは単なる敵ではなく、励まし合ったり時には手を貸す時もあります。

 

一般的にはスポーツの多くは年をとるほどに、若い時のようなパフォーマンスを発揮しにくくなります。やはり若い人と同じ土俵・同じ強度で戦うのは難しくなってくると言わざるを得ません。どうしても肉体のピークというのは存在するからです。

 

ただグレートレースには比較的年配の方も出場していて、中には「50歳を超えてからスタートした」なんて方もいました。

先日見た「アルプス大縦断」にも様々な人が参加していました。普段から訓練を積んでいる消防士、普段サラリーマンとして働いている方等、年齢も職種も様々でした。

彼らにとって勝利することはもちろん大事だと思いますが、「ゴールすること」「大事な人と会うこと」「ベストを尽くすこと」等、人によって様々な動機や個人的な目標があるようでした。

 

 

4、レースは思い通りにならないことばかり

そんなグレートレースですが、転倒や疲労等の身体的トラブルもちろん、自分ではどうにもならない悪天候等様々なトラブルが起きます。

もちろんこんな大舞台、出来るなら最後まで走りたいに決まってます。ですが参加者はトラブルが起きるたびに「頑張って続けるか」、「ここで辞めるか」等の決定を、全部自分一人で考えて決断しなければなりません。

その時の彼らの言葉や表情を見ると、とても胸を打たれます。そしてどのような決断であれ、その決断を下した彼らのことを心から尊敬します。

 

「今の自分の状況はどうなのか」「前に進んだ方がいいのか、立ち止まった方がいいのか」「悔しいけど止めた方がいいのか」

それら全てを考えながら自分のベストを尽くし、レースを走る。本当に人生そのもののように感じます。

 

このグレートレースでは優勝者にはもちろん「優勝」という栄誉が与えられますが、レースで大きなものを得るのは優勝者一人だけではありません。場合によっては唇をかみ切りたいような悔しさを味わうこともあるでしょうが、それら全てをひっくるめた大きなものが、このレースにはあると思います。

皆それぞれが違う状況にあり、目指すものも違う。走る道も違うし、ペースも違う。でも皆真剣です。そしてそこには余計なものがそぎ落とされた美しさがあります。

 

 

5、自分も走りたい

私は今霧の中にいるように感じています。先も見えないし、今いる場所も苦しい。走ってきた道も後悔ばかりです。

でもグレートレースでは、皆がそんな状況を走っています。転倒したり霧で何も見えない場所も、彼らはぶっ飛ばして走っています。私はそれを見ていると「自分もやれるかな?」と思い、なんだか愉快な気持ちにもなります。

 

私はこれまでレースで優勝したことはないですし、一緒にスタートした人は随分先に行ってしまいました。それどころか自分より後にスタートしたランナーも、今の私よりだいぶ先にいってしまったような感じがします。

でもレースが短距離ではなく、長距離だからこそ自分もまだ終わってない、まだいけると思わせてくれます。

「自分はどこに向かいたいのだろう、そもそもこのレースを自分は走れるのだろうか。でもまだ終わりたくない、怖い、でも走りたい」。グレートレースはそんなことを思わせてくれます。

 

 

6、まだ別のレースがあるはずだ!

今でこそ劣等感や嫉妬が大きい私ですが、思えば昔から私は相当な負けず嫌いでした。

今でも走っている時は「これくらいの坂道ならダッシュしてやる」と闘争心を燃やしますし、そんな時にかわいい子が歩いていると、勝手に元気が出て「うおーー!!」と速度を上げます。そういえば昔から私はこんな感じでした(笑)。

 

何度も何度もレースに負けたりリタイアしたりしていると、自信が無くなります。でもレースでも悔しい思いをたくさん経験している人程、別のレースで完走出来た時とてつもなく嬉しいはずです。

そして自分が参加出来るレースが一つも無い程、恐らく世界は狭くないと思います。今思うと何もなければ参加したかったレース、でも参加出来なかったレースは間違いなくあります。でももしかしたら今後参加するレースで、深い満足感を感じるような出来事に出会う可能性もあるのかなぁと、このグレートレースを見て思いました。

 

 

7、最後に

今私と同じく悔しい思いをしている方へ。今後自分が参加するレースで満足する為に、今出来る準備を私と一緒に少しずつやりませんか?

「腕立て5回をする」、「英単語を1日一つ覚える」、「資格の勉強を半ページしてみる」等、今ここから出来ることは多分あるはずです。

全く動けずに何もやる気が起きない時もあると思います。

でもいつかレースに出てやりましょうよ。これまで悔しい思いをした分、たくさん泣いて笑ってやりましょうよ。

 

長い時間苦しんだ人程、満たされてないことへの飢えは強いはずです。これって良いか悪いかは別として、とてつもなく大きなエネルギーですよね。それをぶつけられるレースが自分を待っているはずだって、少し強がりながらなんとか生き抜いてやりましょうよ!

それではまた!

心気症について、「自分は病気かもしれない!」

皆さんこんにちは、もち丸です。

最近ストレスのせいか、色々なことが気になります。自分のことでやらなければならないことはたくさんあるのですが、母の体調が思わしくないことが一番心配です。辛そうにしている家族を間近でみるのは、やっぱりキツイですね。

 

さてこの「気になる」というのは私の得意分野ではありますが、今日は体のちょっとした違和感が気になってしまう心気症についてまとめてみました。

私は長年強迫性障害に苦しんできましたが、この心気症にもかなり長い期間苦しみました。今は病的なまでに心配してしまうことは無くなりましたが、心配する傾向が強いという性格的特性はまだ残っています。今回も専門家としてではなく、体験した立場からの記事になりますので、どうぞご覧くださいませ。(約7分程の記事です)

 

 

 

1、心気症って何?

心気症とは自分の体調のちょっとした違和感を、大きな病気の症状と思ってしまい、不安で仕方なくなってしまうものです。

これだけ聞くと誰もが少しは思い当たる部分があるのではないかとも思います。特に今はコロナの影響で、体調の変化に敏感になっている人も多いのではないでしょうか。

 

症状の一例を挙げますと、頭痛があると「脳腫瘍じゃないか」、胃が痛いと「胃がんなんじゃないか」等、大病を心配してしまうケースが多いです。そして多くの場合病院で検査をしても、異常は見つかりません。

そして心気症の厄介な点は、一度医者に診てもらって安心を得たとしても、その不安と思考が何度もぶりかえすことです。これが酷くなると日常生活にも支障をきたし、病院通いを繰り返すことになります。

その意味で「強迫観念」と「強迫行為」を繰り返す、強迫性障害と似ている部分があると思います。

 

 

2、私が心配した病気

私は色々な病気を心配しました。網膜剥離、聴神経腫瘍、脳腫瘍、大腸がん、ALS、咽頭がん緑内障…ここに書けばキリがない程です。

「なんだか最近喉が痛いし声がかすれている気がする、咽頭がんじゃないか」といった具合です。

病院に行った直後は少し安心するのですが、少し時間が経つと「あの先生は見落としたんじゃないか」等、べったりとした心配がぶり返してきます。束の間の安心にしかなりません。また1番心配な病気が無くなったとしても、2番目に心配な病気が1位に繰り上がるだけの場合もあります。

一番酷い時期は毎週どこかしらの病院に行っていましたね。

 

 

3、何が苦しいのか

心気症の苦しさは「自分は病気に違いない」という思考に塗りつぶされてしまうことにあります。どうしても「自分は病気かもしれない」という考えが拭えないのです。

そして「病気に違いない」と思い込んでしまうと、冷静さを失って「自分は病気だ」という視点で情報を集めるようになる為、最早自分が病気にしか思えなくなるのです。当然集中力は落ちますし、思考も悪い方へと流れるようになります。

日常は流れていくのに、自分はそこに留まったまま動けない。やがて行動意欲も落ち、行動範囲がどんどん狭くなっていきます。

 

ただ「病気が気になる」ということは、ある意味多くの方が少しは理解出来ることでもあります。その意味で強迫性障害は多くの人に理解されにくい故の苦しみがあり、心気症は理解出来るからこそ「なんでそんなに気になるんだろう、病院で診てもらったのに」と違う意味での理解されにくさがあると思います。

 

それと私は実際に何らかの症状が見つかった経験があった為、「あの時は本当に病気だった」という経験に補強され、「今回も気にしすぎだ」と言い切れなくなりました。その為「今回病院に行かずに、病気が進行してしまったらどうしよう」と思うようにもなりました。

 

 

4、完全な健康体を望みすぎると苦しくなる

私は何か心配事があった時、その完全な状態ではない一つのことが気になって仕方なくなります。そしてその不完全たらしめている一つのことを、なんとかしたい、何とか治して一つも気になることが無い状態にしたいと強く思ってしまいます。

 

ですが年齢を重ねるほどに、何かしら気になる症状を抱えるようになるものです。子供の頃のように、体に何一つ心配が無かった状態には戻れません。その時に「諦めて受け入れる」という態度をとれないと、ずっと不満を持ったまま、健康な人をうらやんだり、自分をそういった状態に追い込んだ存在を憎み続ける事になります。

例え憎んでしまうのが無理のないことだとしても、怒りを持ち続けるのは心身にとって猛毒です。その状態で動きが鈍ると、まるで水の流れの無い濁った沼のように、心身がますます停滞していきます。そんな状態では良い出会いも生まれず、次に進もうとする前向きな思考は出てこなくなります。

 

 

5、まずは知的理解からスタート

私はパニック発作神経症、心気症、強迫性障害等に長い時間苦しみました。

そんな私にとって回復への第一歩となったものは、心気症という症状が世の中にはありそれに苦しんでいる人は多いということ、そして時間がかかったとしても、治るものだという知的理解です。

そして診察は受けたとしても一回までというような、回数制限することから始めました。これも強迫行為の軽減と似ている気がしますね。

 

最初はむしろ不安感が強まり、気になって気になって仕方ないと思います。その時に大事なのは「動くこと」です。心気症があってもやることをやれたという自信、経験を積むことです。

これが難しいというのは私も痛い程わかります。ですがその積み重ねにより、苦痛の濃度を薄めていくことは、回復にとって欠かせないと思います。

 

 

6、回復には空白の時間を作ることが大切

そして私が回復に一番大事だと思うのは、一瞬でもいいので気になっていない、症状の空白時間を作ることです。

最初は出来たとしても数秒程度かもしれません。それでも数秒でも空白時間を感じることが出来たならば、必ず良くなるはずです。それはどんなに強いとらわれの中でも、とらわれていない状態が自分にもあるという何よりの証明だからです。その数秒は数分になり、やがて気になる時間と気になっていない時間の長さが少しずつ逆転していきます。

 

私にとってその空白時間を作るのに効果的だったのは運動です。もちろん少しでも夢中になれるものであれば、なんでも構わないと思います。

ただいきなり他の人と運動をするのは、ハードルが高いかもしれません。そこで個人的にはウォーキングがお勧めです。

室内での運動もいいですが、外では風や川等自然界全てのものが流れているという感覚を肌で感じることが出来ます。というよりも自然の中に身を置くと、心が自然と流れていかざるを得ません。きっと自分の中に新鮮なものが入ってくる感覚を実感出来るはずです。

新しいものを心身に取り入れて、古いものを出していく。そんな新陳代謝のようなイメージを持って動くことは効果的だと思います。

 

 

7、心気症の人がしてはいけないこと

当時を振り返ってみて心気症を悪化させてしまった原因は、

  1. ネットで気になる症状を調べる
  2. 健康番組を見る
  3. 体を気遣うあまり行動を控える

等ですね。

 

特に1の「ネットで気になる症状を調べる」は厳禁です。本当にろくなことになりません。(笑)

ネットで「胸が痛い」とか「胃が痛い」等を検索すると、大病の検索結果が多く出てきます。それを見てしまうと「自分はその病気かもしれない」という考えに取りつかれてしまいます。

ただネットの情報って鵜呑みに出来ないものも多いんですよね。もちろん全てが嘘というわけではないでしょうが、読んだ人に不安になってもらって、「でも安心してください、うちに来れば大丈夫ですよ」といった流れに引き込もうとする記事もあると思います。やはり不安はとても強い行動意欲になるからです。

 

またテレビの健康番組に関しても、視聴者に関心を持ってもらう為に、医師の発言や番組構成を刺激的にする傾向があると思います。

そしてこれら健康情報に触れる際、自分が病気かもしれないというスタート地点から出発していますから、情報を見ても安心材料ではなく、不安材料になってしまいます。これではただでさえ医療の素人である私達が、フェアな判断をくだせるわけがありません。

 

また3の「行動を控える」ことも心気症に悪化に繋がります。もちろん行動を控えてしまう気持ちは痛い程わかります。ですが行動しないことは心身の停滞に繋がります。その意味で1日の中に短時間でも体を動かす時間を作ることは、心気症改善にとても大切だと思います。

 

 

8、最後に

私は神経症と重なってはいましたが、心気症にも10年以上苦しんできました。カウンセリングや投薬治療等、様々な治療を受けました。

ただ「体のちょっとした異常が気になる」ということは、全てがマイナス面というわけではありません。それによって健康に無頓着な人より、病気を早期発見・早期治療出来る可能性もあるからです。

その為「病気を心配してしまう状態」を0にしようとするよりも、「人よりも少し心配性というレベルまで回復すればいい」という目標設定の方が適切なような気がします。

「気になる感じを0にしようとすること」は神経症的ですし、健康について心配性な人は割と多そうな気がしますからね。

 

やはり目標設定は緩めの方が、治そう治そうと意気込んでいるよりも、結果として治りやすいような気がします。