強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

フランクルと自分の神経症

こんにちは、もち丸です。

最近急に暑くなってきましたね。最近は気温差のせいか体調は今一つ。早く精神的に落ち着きたい今日この頃といった感じです。

 

さて本題ですが今私は精神科医フランクルの本にハマっていて、5冊程読み終えたところです。

以前別記事でアドラー心理学に関する感想を書きましたが、今回はこのフランクルの考えを基に、自分の神経症発症やこれまでの流れを整理してみたので、どうぞご覧くださいませ。

 

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1、私とアドラー心理学

私は以前アドラー心理学に関する本を何冊か読み、当時行き詰っていた自分の状況を変えるきっかけを得ました。なかなか厳しい考えでしたが、当時は興奮を感じながら本を読み進めたことを今でも覚えています。

ただここで言っておきたいのは、アドラー心理学も数多くある心理学の一つであり、アドラー心理学が絶対に正しいというわけではないということです。

 

もちろん私がアドラー心理学を正しく理解出来ていない部分も多いです。それに例え劣等感がその人の神経症の大きな要因だとしても、アドラー心理学を正しく理解した医師やカウンセラーは、「あなたの神経症は劣等感が原因です。そして症状を作ることで自分を守り、状況を操作しているんですよ」等とは絶対に言わないでしょう。

恐らくその医師達は、患者に自分の状況を適切に理解してもらうと同時に、適切な励ましによって患者本人が人生の課題に取り組めるよう、サポートしていくと思います。

 

私個人の話で言えば私はアドラー心理学を読んだ時、「そう、これこれ!」と自分の状況を理解出来た面白さと同時に、自分の情けなさを強く感じました。

そしてこれから取り組まなければならないであろう課題を前に、大きな不安を感じました。

 

そのような意味では今症状が強く出ている人には、アドラー心理学の本はあまりお勧めしません。(笑)

そこで今回はフランクルを読んだ今、自分の神経症に対して再度考察してみました。

 

 

2、フランクル神経症

私は17歳の時に神経症になりました。発症のきっかけは「眼鏡を作ったこと」と、片頭痛の前兆である「閃輝暗点が出たこと」です。

yoneson.hatenablog.com

詳細は上記記事で述べていますが、当時の自分は「常に目と自分の視界に注目している」状況にありました。

フランクルはこのような状況について、「人間とは何か 実存的精神療法(春秋社)」で次のように述べています。

 

・「過度の意識と過敏な自己観察がそれ自体ですでに障害をもたらすことはよく知られている」

・「歩行者は目的地に目を向ける代わりに自分の歩く注意を向けすぎると、そのとたんに、つまずいて転ぶであろう」

 

 

その一文を読んだときに、「まさにこれだ!」と思いました。

まさに私もそうでした。過度の意識の集中、そして予期不安によって悪循環に陥っていったのです。

 

ただ私はフランクルの言う神経症的性格だったとは思いますが、神経症的性格でありながらも、神経症を発症しない人もたくさんいます。

それは「病気にならない人が強い」とか、「切り替えがうまい人は神経症にならない」というような単純な事ではないように思います。

何かしらのトリガー(引き金)によって、神経症の方向に進んでしまうことは、誰にでも起こりうることです。

 

その意味では当時の自分にはどうしようもなかったのかもしれません。あまり昔の自分を責めたくはないですね。

 

 

3、苦悩は業績である

私にとっては20代前半から30代前半は、とてつもなく苦しい時期でした。

出世や結婚等前に進んでいく友人との差を感じ、自分から距離をとったこともありました。そして思うように動けない自分を情けないと思い、ずっと責め続けてきたのだと思います。

 

でも今思うと動けないなりに精一杯やってきたのです。資格取得や勉強、アルバイト…

そしてリワークプログラムでの多くの人との出会いの中で、自分の考えを表現する大切や難しさ、苦しさを共有出来た時の喜び、想像力や共感力等、多くのことを学びました。

就職活動では表立ったPRにはならないことではありますが、それでも間違いなくその時その時少しでも良い方向に行こうと、もがいてきた自分の歴史です。それはもしかしたら、人とはだいぶ違う形の私の青春なのかもしれません。

 

「私は何も成し遂げてない、口だけの人間だ」と自分を過小評価してしまうことも多いです。

でもフランクルはその苦悩に耐えたことを「業績」だと言ってくれるのです。

そして人間は意味を求める存在であり、意味を見出すことが出来れば、人は自ら苦悩を引き受けることが出来る存在なのだと。

 

よく「自分を受け入れる」とか「自分を認める」という言葉を目にしますが、これってとても難しいことですよね。

でもそれが出来たことによって、自分の苦しかった時期を新たな視点で見つめ直すことが出来たとき、その苦悩で満ちていた時期の持つ意味がガラッと変わるかもしれません。

このような苦悩に対しての解釈や人間だけが持つ力に対する考察から、フランクルが唱える心理学技法「ロゴセラピー」は、逆境の心理学とも言われるそうです。

 

 

4、苦悩に意味を見出す

さて問題はこれからどうするかということです。

最近は就活に苦戦している事に加え、母の体調があまり良くないことから、結構キツイです。

ここ2、3ケ月は抗がん剤の切り替えや、足に血栓が出来て別の病院にかかるなど、結構バタバタしていました。

自分のことだけでもギリギリなのに母のこともあって、精神的にはギリギリです。加えてコロナによる様々な影響もあり、バランスが上手く取れていない状況ですね。

 

そんな中今自分が大切にしている言葉は、「千里の道も一歩から」「ひとつの幸せのドアが閉じる時、別のドアが開く。しかし私達は閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない(確かアンネフランク)という言葉です。

 

今がどんな状況だとしても、一足飛びに何かを得ることは出来ない。今出来ることはわずかでも小さな一歩を積み重ねるしかありません。

確かに実現出来なかったことや得られなかったことには後ろ髪をひかれますし、後悔も大きいです。でもそこにこだわってしまうと新しいチャンスに気付かず、「あれさえなければ」、「もう少し若ければ」と後悔や嫉妬したまま年を重ね、死んでいく事になります。

そう考えると恐ろしくてたまりません。「それは嫌だ!!」と思います。

 

 

5、苦悩の中で思う事

でも最近よく思うのです。

私は母が病気になって良かったとは絶対に思いません。でも今良くも悪くも家族と、とても濃い時間を過ごしています。

そして何気ない会話や口喧嘩の中で、大きな幸せを感じることもあります。ただ「なんでこんなに自分は気付くのが遅いんだ」と自責の念にかられることもセットですが…

 

ここでフランクルの話に戻りますが、フランクルは「人間は意味を求める存在だ」と繰り返し言っています。そして自分が人生から何を期待出来るかではなく、人生が自分達に期待しているとも言っています。人生は思うようにいくことばかりではないが、「今、この状況でどのような態度をとるか」という事を、私達は常に人生から求められていると。

 

このような言葉が、地獄のような強制収容所を生き抜いたフランクルから出てきたと思うと、とても意味深い言葉に感じます。

あの地獄のような環境、身体的自由が無い状況でも、状況に対してどのような態度をとるかという自由は最後まで残されているというのです。

同じ病気の人でも、それに対してどのような態度をとるのかは個人個人によって違います。それは恐らく性格の違いとか強い弱いというような単純なものではなく、正にその人の姿勢なのだと思います。

とは言え昨日まで全てのことから逃げることを前提にしていた人が、今日急に全てに立ち向かうことはやっぱり出来ませんよね。

 

本当に小さな一歩一歩の積み重ねなのでしょうね。分度器の角度で表すと今日、明日の行動の方向性が一度変わるだけでも、5年後、10年後の立ち位置は全く違うものになるでしょう。

もちろん何もかも嫌になって、動けないときもありますが、少しずつフランクルの言う苦悩への勇気を持ち、苦悩に耐えてきたこれまでの自分と共に、良い方向に進んでいきたいと強く思います。

 

※参考文献

①「人間とは何か 実存的精神療法」 ㈱春秋社

②「〈生きる意味〉を求めて」 ㈱春秋社