強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

私が持っているモノの価値

皆さんこんにちは。もち丸です。

最近テレビでは気が滅入るニュースばかりが流れますね。私は母が病気になったことで、大切な人とのなんでもないような日常が、どれだけありがたいことなのかに気付きました。その為その幸せが、ある日唐突に奪われることに強い憤りと悲しさを感じます。

私はこれからの大切な1日1日を、丁寧を生きていきたいと思います。

 

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1、私は自分を大切に出来ていない

今回の記事は表題の通り「私が持っているモノの価値」、そして「私の持ち物を羨ましいと思う人はいるのだろうか」というテーマについて書きます。

このテーマの記事を書こうと思ったきっかけは、「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法(日本経済新聞出版)」という本を読んだことが理由です。これはコミュニケーションテクニックの教本でもあり、自分と他者双方を大切にする為の心構えも紹介しています。

 

私はこれまでメンタル・自己啓発系の本を多数読んできました。この本は最初テクニック系の本かなと思ったのですが、読み進める中でいくつもの気付きがありました。特に気になったのは「自分の抱える罪悪感」や「の意識の危険性」についてです。

そしてなるべく心を閉じないように本を読んでいると、いくつかの記憶がよみがえってきました。

そして思ったのです。「自分は自分を大切に出来ていないなと」。

 

 

2、「罪悪感」と「恥」

これまでもブログで触れてきましたが、私は自分自身を肯定出来ていない部分がたくさんあります。

「私はまだ何も出来ていない」、「親に心配かけてばかりで申し訳ない」、「他の人と比べて自分は」…etc

 

要するに自分の経歴やスキルに自信が無く、自己肯定感がとても低いのです。それに対して周りの人全員がとてもしっかりしているように見え、「大きな差」を感じています。

それは本に記されている「罪悪感」「恥」にも繋がります

これまでもそのような心情について書いてある本を読んだことはありますが、今回は妙に引っかかったのです。そしてふと「本当に皆罪悪感とか恥とかの感情を感じているのか?大体の人は俺より色々しっかりしてると思うんだけど」と思いました。

 

つまり私からすると他の人が持っている経歴・スキル・立場等がとてもまぶしく見え、反対に自分の経歴・スキル・立場等に自信が持てないのです。

他の人の「持ち物」と自分の「持ち物」に、大きな隔たりがあるように感じる。でもこの本を読んだ時に少しだけ、「自分が持っているものって本当に全部駄目なんだろうか」と思ったのです。

 

 

3、不完全でもありがたい?

このブログでも何回か触れましたが、私の母は肺がんです。しかも今年の初めに積極的治療が終了してしまい、今は緩和ケアに入ったという状態です。

 

母の抗がん剤治療は今年始めに終了しましたが、後遺症はまだ残っています。確かに休薬したことで後遺症は回復しつつあるのですが、足先の皮膚荒れが特に酷い状態です。その影響で普通に歩くことが出来ず、まるでペンギンのようにつま先を上げながらでしか歩けないようです。しかも痛い箇所をかばう歩き方故、他の場所も筋肉痛になる等苦労しています。

そんな母を近くで見ていると、「普通に歩けることがどれだけありがたいことか」と今更ながらに思います。

他にも私はがん患者とその家族が利用出来るコミュニティサイトを利用していますが、そのサイトでも多くの方が病気やその治療によって、様々な悩みを抱えていることを目にします。

 

ここでようやく本題に入ります。

「今病気と闘っている人から見ると、私の体を羨ましいと思う人はいるんだろうな」と思ったのです。

もちろん私もこれまで苦痛が無かったわけではありません。今も思うようにならない部分がたくさんあります。それにがんという病気を抱えている方と、私の悩みや苦しみも比較出来るものでもないと思います。悩み苦しみはその人だけのものであり、決して比較出来るものではないからです。

それでも色々ありながらも自由に動ける体を持つ私を、今思うように体が動かない方から見ると、「素晴らしいものを持っているじゃないか」と思う人もいるだろうと思ったのです。

 

 

4、自分が持っているモノの価値

もし私が体に重い障害を抱えている立場だとして、今の私のような人を見たとしたら、

「年齢?そんなのどうとでもなるだろう」

「目が悪い?それでも見えるだけ羨ましいよ」

「スキルとか経験が無い?それこそこれからどうにでも出来るだろう」

と思っても不思議ではないと思いました。

 

私は今でも母に奇跡が起きて欲しいと祈っています。それでも例え本人に落ち度がなくても、どうにもならない状況に陥ることがあるんだと思い知らされています。

私は「私の苦しみを軽くは見積もらない」ことにします。それでも私の今の状況は「どうにもならないことではないのかもしれない」と思います。恐らくどうにもならないことは他にある。

 

別に自分より辛い状況にある人を物差しにして、「自分の方が恵まれている」と思いたい訳じゃないんです。でも曲がりなりにも自分の身体を自分の意思で自由に動かせることが出来、差し当たっては命の危険が間近に迫っているわけでもない。これは間違いなく私が持っている「もの」なんだとも思うのです。

私は眼鏡作りに苦労しない人を羨ましく思う事がしょっちゅうあります。「なんで他の人が苦労しないで出来ることに、自分は苦労しなければならないのか」と。

でも「あなたは私が欲しいと思うものを持っているじゃないか」という気持ちが、自分に対して向けられてもおかしくないなとも思ったのです。

 

 

5、気付いた後にどうする?

私は今ハッキリ言って比較の世界に生きていると思います。上を見ればきりがなく、下(この表現はどうかと思いますが)を見てもキリがない。

もしかしたらある人から見たら、私は「持っている人」なのかもしれません。そしてその気付きを自分を責める為にではなく、活かすことに使いたいです。「持っているのに出来ていない」のではなく、気付きは前進だと信じたいです。

 

とりあえず今出来ることはなんだろう。過去を後悔し続け、未来に不安を持ち続ける今でも、例えば1日1個英単語を覚えること位なら出来そうです。「千里の道も一歩から」、「ローマは1日にしてならず」ですね。

準備の為の人生で終わりたくありません。ずっ~~と「来年こそは」と言い続けて終わりたくはありません。

 

 

6、最後に

やはり改めて思うのは、自分への敬意はとても大切だということです。

ただ自分を大切にするということは、言葉としては理解出来ますが、具体的にどうするかというと難しいです。ただ自分を責め続けるということとは逆のような気がします。

 

今私のブログを見ている方の中にも、今辛い状態にあり余裕が無い人もいると思います。そのような状況で自分を大切にするのって、結構難しいですよね。上っ面ではなく、自分を大切にするにはどうすればいいのか。

現時点で明確な答えはわかりませんが、最後に私が何度も読む本の中で、何度も救われた素晴らしい文章を紹介して終わりにします。

 

『どんな時でも、人生には、意味がある。

この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」があり、「誰か」がいる。

そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見されるのを待っている。

だから、たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。

あなたがすべてを投げ出しさえしなければ、いつか自分の人生に"イエス"と答えることのできる日が必ずやってくる。

いや、たとえあなたが人生に"イエス"と言えなくても、人生のほうからあなたに"イエス"と光を差し込んでくる時が、いつか、かならずやってくるはずだ』

 

※「〈生きる意味〉を求めて V・E・フランクル著 春秋社」