強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

先に進む為には足場が必要

皆さんこんにちは。もち丸です。

この記事を書いているのは3月終わりなのですが、桜があちこちで咲き始めています。まだ寒い日はあるものの、空気が冬の頃とは明らかに違います。

なんだか季節が変わっていくのが、嬉しいような怖いような気がする今日この頃です。

 

さて今日は「人が踏ん張る為には足場が必要だ」というテーマについて、記事を書きたいと思います。

最近は忙しい&精神的にキツイ毎日ですが、今のところ何とか前向きに行動出来ています。「俺は精神的に強くないのに、なんで動けるんだろう」と思ったことをきっかけに書いてみました。

 

 

 

1、何故か調子は悪くない

私は現在相変わらず転職活動(どれだけ長いんだ)をしながら、母の看護をしています。

現在は緩和ケアを受けていて、今はなんとか普通に生活出来ていますが、今後は様々なサポートが必要になる可能性があります。(それでもまだ奇跡は起きて欲しい。神様お願いしますよ!)

その為介護保険申請や各種準備等、初めてやることが多くて大変です。

 

また母も母で色々なことを考えているのでしょう。家の物を整理したり、自分の葬式のことを考え始めたりしていて、それを見ていると本当にキツイです。これマジで胃が痛いですよ。もう自分が死ぬことを前提に、話をしたり物事を進めていくのですから。

 

にもかかわらず、最近の私の調子はまずまずなんです。以前強迫性障害に苦しんでいた時や、前職退職時よりも確実に体調は良く、少し不思議な感じがしています。

それには色々な要素が影響しているとは思います。漢方、精神腫瘍科、がん患者交流サイトの活用...

そのどれもが大切な緩衝要素となっていると思いますが、個人的には漢方の存在は大きいような気がします。

ただ当然のことながら漢方は、今の私の状況を直接改善してくれるわけではありません。その為現時点で苦痛を0にすることは、やはり難しいと思っています。

そして苦痛を0にすることの出来ない理由の中に、私の眼鏡(見え方)の問題もあります。

 

 

2、なんで自分だけが

以前別記事で私は不同視の影響で、見え方の調整が難しいことを述べました。

yoneson.hatenablog.com

 

私は「メガネを作るという誰もが普通にやっていることに、なんで自分は苦労しないといけないんだ」という不満や怒りを、ずっと感じてきました。

ただ最近は

  • 「あの眼鏡屋ならもう少し楽なメガネを作ってくれるんじゃないか」
  • 「このメガネが日本で一番いい眼鏡かって言うと、違うよなぁ」

といった具合に、より上手くいく方法が、今の自分の行動範囲の外にあるんじゃないかと思うことがちょこちょことあります。

これは2021年、2022年のパラリンピックを見たことも影響しているかもしれません。

 

私はパラリンピアンを見て、「選手達も競技に打ち込むことが出来るようになるまでに、他の健康な人達のことを羨んだり憎んだり、過去や親、自分をこのような状況に追いやったものや運命を憎んだのではないか」と、勝手に想像しました。

 

「失くしたものではなく今あるものを使ってどうするのか」。そのことは私も知的理解は出来ますし、ある種究極の真実なのかもしれません。

でも辛い時にそのような正論を聞いて、受け入れようとすることはとても難しい。場合によってはまるで暴力のようにすら聞こえます。そして器の小さい私は以下のようなことを思ってしまいます。

 

  • 「そんなのわかってるよ!でも簡単になれるか!」
  • 「他の人は苦労しないで普通に出来るのに。なんで俺はそんなことに苦労しないといけないんだ!」
  • 「もうこの時点でハンデだ!なんでこうなったんだ!もう取返しがつかないぞ」
  • 「これからずっとこれで生きていかないといけないのかよ」
  • 「俺がどれだけ大変かを分かって欲しい。凄い大変なんだ!皆ずるい!」

 

 

3、真の平等なんてありえない...けど

私の想像ですがパラリンピックに出た人も、恐らく上述のような心理状態を乗り越えてきていると思うんですよね。

そして私が常々思うのは、比較というのは苦しさや惨めさを増長させるものだということです。

比較は「自分の持っているもの」と「人の持っているもの」の違いをハッキリと実感することに繋がります。本当に終わりが無い、キリがないです。

 

また一口に「足の障害」といっても、「片足だけなのか」、「膝関節はあるのか」等によって、対応出来ることやその補助、活かす方法もまるで違ってきます。

同じ障害枠だとしても、全くの平等・同じスタートというのはあり得ません。

もちろん競技として成立させる為には、線引きや点数係数の調整等がどうしても必要となります。選手から見れば文句もあるでしょうし、納得いかない部分もあるのでしょう。でも今の自分の全てを使って競技に打ち込むその姿に、私は色々なことを考えさせられました。

 

「多分自分にもまだ出来ることはあるはず。ここで終わってたまるか!」と思いました。

とても不思議な気分です。自分は元々打たれ弱く、今も精神的にギリギリなはずなのに、なぜかそう思える自分もいるということに。

 

 

4、一歩を蹴りだす為の足場

ここでこの記事の本題に入りますが、私は頑張ったり何か新しいことに挑戦する時には、踏ん張ることの出来る、あるいはそこを基に蹴りだす為の「足場」が必要だと思います。

 

この間ランニングをしていた時、ふと「あの道はどこに通じているんだろう」と思い、初めての道を少しドキドキしながら走ってみたのです。ただその時はコンタクト無し(左右差が大きく距離感がつかみにくい状態)で走っていた為、恐る恐る走るしかありませんでした。

普段は眼鏡とコンタクトを併用している為、距離感の問題もそこまで酷くはありませんが、コンタクトが無いと思い切り走るのが怖いのです。行動する時の突貫力が落ちてしまう感じです

そしてその時に「今も目に問題が無い人なら、こんなにおっかなびっくりじゃなく、普通に走れるんだろうな」と思ったのです。

そして目に限らず何か体に不便なものを抱えている人は、知らない道を通ったり、初めてのことをするときは、慎重にならざるを得なくても仕方ないんだなとも思いました。

 

そしてそれは走る時に限らず、人生においても通じる部分があるのではないかと思います。

何か行動したり、新しいことに挑戦する為には、力を出しても大丈夫だという状態を必要とするんだと思います。

それは人によっては「安心して行動出来る体」かもしれませんし、「家や家族等の帰ってくる場所」かもしれません。あるいは「何があっても進むのだといった信念や覚悟」のような心理的なものかもしれません。

そのようなものが一つも無い状態では、人は安心して地面を蹴り、前に進んでいく事は難しいのかもしれません。その為大事なことは、目標そのものはもちろん、その目標に向かって進む為に、自分が踏ん張ることの出来る足場のようなものを少しずつ作っていくことなのかもしれないと思いました。

 

 

5、最後に

人は頑張れという言葉を何気なく使いますし、自分自身に対しても「もっと頑張れ」、「出来てないぞ」という言葉をかけます。

でも頑張れる時は人から言われなくても頑張れますし、頑張れない時はやっぱり頑張れないんです。頑張れるくらいなら、とっくに頑張っていますよね(笑)。

 

頑張ることが必要な時は、踏ん張る為の土台が必要です。逆に頑張れない時は、遠くの目標を見るのではなく、「今は踏ん張る為の土台作りをしているのだ」と思ってもいいのかもしれません。

今辛い時間に耐えているこの時も、自分が何かに向かって進んでいく為の足場作りにきっと繋がっているはずです。