強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

意味のある後悔について

こんにちは、yonesonです。

 

この記事を書いているのは10月の連休中です。この連休もバドミントン中心の休みになるはずでした。

ところが超大型台風の影響で、中止になってしまいました。(泣)

9月の連休にも台風が来ましたよね。何も連休に合わせて来ることないのに、嫌がらせかとも思います。

各地で被害が起きていますが、皆さんもどうかご無事でありますように。

 

目次

 

1、母と闘病

さて今回は母についての想いと、「後悔」をテーマに記事を書いてみました。

これまでブログで触れましたが、母は現在病気治療中です。今は治療のおかげで小康状態ですが、どうなってしまうのかと怖くて仕方ありません。

病気が判明したのが去年の9月なので、1年ちょっとが経ちました。治療の効果が出ているとも言えます。

 

ですが私達家族にとっては辛い時間でもあります。家族はずっと元気でいるものだと根拠なく思ってましたし、「他の人と比べたら~」という比較の話も慰めにはなりません。

治療の目的が「完治」でない以上、常に不安・恐怖があります。完治の可能性があれば明確なゴールを目指して踏ん張れますが、「その時」のことが常に頭にある。こんな辛いことはありません。

 

もちろん家族を含め、人との間には別れが100%来ることはわかっています。親が子供より早く逝くのも自然の流れかもしれません。

 

でもなぜ今なんだと!!

なんで自分が再スタートしようとしているこの時期になんだ!あんまりじゃないかと思います。

大きな出来事は1つずつ来て欲しいです。複数来られたらキャパオーバーです。(やれやれ)

 

 

2、なぜ苦しいのか?

さてここで本題とは少し離れた話に入ります。

なぜ今自分が苦しいと思うのか。その理由の一つに「役割」を果たせていないという気持ちがあるからだと思います。

 

自分の立場が「学生か社会人か」、「就業中か離職中か」等で変わってくるとも思いますが、自分が役割を果たせてないと感じる時、申し訳なさや焦りを常に感じることになりますよね。

「学校に行けていない自分」、「家事が出来てない自分」、「ちゃんと働けてない自分」etc.

 

この「役割を果たせてない」という感覚は結構きついです。だからこそ体調が良くなって再び動き出せるようになったとき、嬉しくて、あるいはこれまでの分を取り戻そうと飛ばしすぎ、再び体調を崩した人も多く見てきました。

この「自分は出来てない」という感覚。多くは比較から来るように思います。そして比較は「人との比較」「以前の自分との比較」の二つがあるように思います。

 

 

3、人との比較

これは病気に関係なく誰にでもあると思います。

「どうしてここまで差がついたんだ」、「あの人は両親健在か」、「あんないい仕事してていいなあ」…

人で自分の立ち位置を計り、一喜一憂してしまう。

還暦を過ぎても両親が健在の方もいるように、小さい時に家族を亡くす方もいる。

人生ってつくづく公平ではないと思います。「なぜ自分が」の呪縛は結構しぶといです。

 

でも比較を続けている限り、心って平穏にはならないですね。

例えば「早くに親を亡くした人と比べたら、自分は幸せなんだ」と思おうとしても、中々受け入れられるものではありません。

少なくとも私はこの心境になれそうにありません。

 

 

4、以前の自分との比較

この比較も結構苦しいです。私はこの思いにずっと苦しんできました。

 

当然のことですが体調を崩した人には、崩す前の記憶があります。

体調を崩す前は普通に出来ていたことが出来ない。仕事、勉強、家事はもちろん、日常のちょっとしたことにも苦労します。これにはほとほとまいります。

「昔は勉強もスポーツも出来たのに」、「1日活動した後、アフター5も活動して、帰ってからも仕事や家のこともやっていたのに」...

 

「本当はもっと出来るのに…なぜこんなことに」と疲労、落胆、絶望と共にどんどん辛くなっていきますよね。

 

 

5、必ず終わりは来る。しかし...

ですがどんなに苦しく辛いことでも、大抵のことには終わりが来ます。私もかつて苦しんだ症状は一切ありません。ですが問題はその後です。

前回の記事で「モーニングページ」というものに触れました。

 

yoneson.hatenablog.com

 

このモーニングページについての本、「ずっとやりたかったことをやりなさい (ジュリアキャメロン/管靖彦 サンマーク出版)」には以下のようなことが書かれています。

 

「あなたがしていることは鏡の汚れを拭うことだと言ってもよい。日々のモーニングページは普段の自分と本当の自分との間にこびりついている汚れをふき取ってくれる。」

 

私も正にその効果を感じていて、自分が何を考えているか、感じているかという事に気付くようになってきました。逆に言えばごまかしが効かなくなるということでもあります。

 

このモーニングページを続けるうちに、自分の心境に多くの変化が起こりました。また解放された記憶や感情も多くあります。

その中の一つに強烈な感情があります。それは「後悔」です。

 

20代、様々なことにチャレンジ出来る期間であり、一方未熟さも許容される時期。私はこの時期に出来たであろう多くの機会を逃してきました。

 

誰にでもつまずき、立ち止まることがあると思います。でも再び歩き出そうとする時は、これまで積み上げてきた土台(職歴、資格、経験)を基に再出発する。しかし自分にはその「土台」が欠けているんじゃないか。

 

「なんでもっと早く今の状態になれなかったんだ!」、「もう少し早ければいくらでも選択肢があったのに」という思いが、モーニングページを通じてどんどん出てきました。

※もっともモーニングページを続けるうちに、このような強い感情が出てくることはよくあることらしく、むしろいい傾向であるようです。

 

 

6、先に進んだからこそ見えるもの

ここでようやく本題の母への想いに繋がります。

「20代もっと動けていれば、母は私を心配をせずに病気にならなかったんじゃないか?親孝行が出来ていたのではないか」という思いが出てきました。

 

もちろんこれは私の主観です。そうじゃないと言ってくれる人もいますし、確証もありません。ただ「そう思った」という事だけが事実です。

 

ただ、これは私がここまで来たからこそ気付けたものでもあります。それは上で書いたように、「心の汚れがとれたことで、自分の気持ちをはっきりと捉える事が出来るようになってきた」という事です。

ただ自分の気持ちに向き合うって、めちゃくちゃキツイんですよね。毎日お腹は壊しますし...

 

でもこのたどり着いたからこそ感じるようになった怖さは、病気で苦しかった時よりも100万倍もマシです。

それは苦しいけど誰もが通る道であり、対処のしようがある「問題」だからです。

病気のような得体のしれない苦しさよりも、建設的に解決できる課題だからです。

 

 

7、最後に

ただ確実に言えることは、母はまだ生きてるということ。機会はまだあります。

それに自分から見てしっかりと親孝行が出来ているように見える人も、外からはわからない苦労があるかもしれません

どんなに献身的に介護をしても、必ず何らかの後悔は残ると言った人もいました。

 

ただちょっと後悔と言うか、前進出来ずにくすぶっていた時期は長かったかな。

 

結局今が幸せかどうかで、過去の辛い記憶も「あれがあったから今がある」と定義されるんじゃないかなと思うのです。まるでオセロがひっくり返るように。

今が辛いと感じるから、過去の記憶も辛いものばかり思い出すのでしょう。

 

では最後に...

ちくしょう、今に見てろよ。絶対報われてみせるからな!!(笑)

母さん、長生きしてくれよ~。