強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

罪悪感を抱える事

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

とうとうオリンピックが終わってしまいましたね~。

でも終わりは次の始まりです。高校野球も始まりましたし、パラリンピックも開催されました。

 

開催の是非や影響について思う事もありますが、人がスポーツに真剣に打ち込む姿は本当に魅力的です。

それと去年オリンピックが延期になったことで、「もしかしたら来年は母とオリンピックは見れないかもしれない」という考えがあったので、今年母とオリンピックを楽しめたことは、一生の思い出になると思います。

改めてオリンピックよ、ありがとう。

 

さてここからが本題ですが、今日は「罪悪感」をテーマとしてみました。

この罪悪感、私もメチャメチャ感じますし、私の周りを見てみても罪悪感が本人を苦しめ、行動を縛っているケースが多いように思います。

そこで今回は自分のことやこれまで出会った人を参考にしながら、改めて考察してみました。

 

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1、罪悪感とは何か

私はこれまでずっと罪悪感を感じてきました。特に家族に対して感じることが多いです。それによって自分への自責が生まれます。

・「この年にもなって迷惑をかけて申し訳ない」

・「いつまでも心配をかけて申し訳ない」

・「穏やかな老後を奪ってしまい申し訳ない」etc....

 

他にもたくさんありますが、これらの罪悪感を持ち続けることによる影響はとても大きいです。

 

何かをやり遂げたりしても、「まだまだ足りない」「本当に自分がしないといけないことはやれてないから全然駄目だ」等、決して満たされることはなく、例え満足したとしても非常に脆い満足感でしかありません。

 

そして人に引け目を感じ、酷くなると他人を羨ましがったり妬んだりと、ろくなことになりません。そして「自分が持つことが出来なかったもの」を得るチャンスがある人を見ると、悔しかったり自分を責めてしまいます。

「なんで俺はあそこにいないんだ!」と怒りに近い感情を持つこともあります。

我ながらなんて自分勝手なんだと思います。

 

もちろんこの感覚は客観的なものではなく、主観的なものにすぎません。

その一例として思い出すのは、私が以前リワークプログラムに通っていた時のことです。

当時誰が見てもうらやむ立場、収入、環境を持っている人が、自分を責め、「全然足りない」と本気で言っているのです。そしてそれどころか私のことを「あなたは本当に凄い、尊敬します」と言うのです。

 

他の人からどんなに「あなたは充分やっているよ」、「いい出来だよ」と言ってもらっても、心からは受け取れず「本当に自分はまだ足りていないんだ」と思っている。

つまり今の自分を受け入れることが出来ていない、今の自分に「イエス」と言えていないのです。

 

 

2、結果か原因か

この罪悪感を感じる原因は本当に人によって違うのでしょう。

①「罪悪感を持つが故に精神的に追い詰められ、病気になる」人。

②「うつ病等の病気になった結果、症状として罪悪感を感じる」人...

 

①の場合は人との出会いやカウンセリングによって罪悪感が薄まり、結果苦痛が軽減されていくことがあると思います。

逆に②の病気の症状として罪悪感を感じている場合は、病気の治療により罪悪感が薄まっていくこともあると思います。

 

ただ①、②いずれの場合も沼にハマると「罪悪感を感じている自分をどうにかしないと!」となってしまう可能性があります。(私はそうです)

そうなると「罪悪感そのもの+罪悪感を捨てられない自分を責める」といった具合に、罪悪感の悪循環が強化されてしまいます。

 

私は昔パニック発作を起こしていた時期がありましたが、この時も「パニック発作を鎮めないと!」と思えば思うほど、パニック発作が酷くなってしまいました。意識が集中してしまうと、状態は強化されてしまうのです。

やはりメンタルヘルス不調に関しては「闘って力で抑えるやり方」は、無意味どころか逆効果になる可能性が大きいです。

少なくとも私には「罪悪感」を理詰めで解消することは、出来ませんでした。

 

大事なことはまずは諦めて、全部認めてあげることをスタートとすることなのかもしれません。どんなに受け入れがたくて、苦しくても。

それは「そのまま、変わらない苦しい今のままでいるしかない」ということではなくて、まずは「今自分は罪悪感を感じてるけど、それは仕方のないことなんだ」と、罪悪感を持ってしまう自分を許すということかもしれません。(簡単ではありませんが)

 

「罪悪感を感じている自分」と「罪悪感を消したい自分」の戦いを緩めたいですね。

 

 

3、罪悪感を手放さない自分?

でも罪悪感ってかなりしぶといですよね。例え人から「罪悪感を持たなくていいんだよ」と言われても、簡単に手放せるものではありません。

 

私自身の場合は、それはこれまで自分が思うような行動が出来なかったことが大きな要因だと思っています。

自分が思い描いていた、「本来の自分(神経症にならなかった自分)」が得ていたであろうもの(実際にはわかりませんが)に執着し、それを得ている人をうらやんだり、妬んだり…

そして何より思うように行動出来なかった、あるいはしてこなかった自分を責める…

 

以前神経症に苦しんでいた当時は、本当にきつかった...

毎日毎日が生き地獄で、良くなる気配も希望も見えない毎日でした。

苦しさは人と比較することは出来ないと思いますが、あの苦しさを乗り越えられる人はそんなに多くないのではないかと思う程の、本当に長く苦しい時期でした。

 

その意味では自分はその時期を乗り越え、ここまで来ることが出来た。

そしてフランクルの「苦悩を耐え抜いてきたことは業績である」という言葉にも救われました。

それでも得たことよりも得られなかったことに注目し、成し遂げたことよりも成し遂げられなかったことに注目する。執着し続ける。

 

この状態の時は視野が極端に狭くなっており、自分がその罪悪感をギュッと持ち続けている状態とも言えます。

人から見たら、「それで自分を責めるのは違うんじゃないか」と思うようなことでも、本人が心から納得出来ていなければ、その人のものにはなりません。

専門家のアドバイスや人からの言葉はきっかけにはなっても、結局最後にそれらの言葉を自分のものにし、納得することは自分にしか出来ないんです。

 

 

4、そもそも回復の定義とは

そもそもメンタルヘルス不調における「回復」とはどのような状態なのでしょうか。

例えばもう落ち込むことはない、同じことを何度も心配することが無い状態を「治った」状態とするならば、「治る」ことは恐らく永遠にないと思います。

私自身、何をもって治ったとするのか、治療のゴールとするのかは非常に難しい問題でした。それでもとりあえずのゴール、良しとする状態が不明確だと、もはや治療の為に生活することになってしまいます。でもそれでは本末転倒ですよね。

 

いわゆる普通の人だって、落ち込むこともありますし、体調が今一つのことは当然あります。

でも以前の私は(今もかも)、何か一つ、小さな体調の変化ですら、悪化の兆し、もしくは何かの病気の兆候じゃないかと、不安と恐怖に怯えていました。

頭では「誰だって体調が悪いときくらいあるさ」と思おうとしても、不安に引っ張られ、一日中体調のことを考えて過ごしていました。

 

その状態を打破するきっかけの一つは、「何か一つでも体調がおかしい時があると、心配になる。俺は少しの体調不良すらも、許せないのか?」という気付きでした。

でもそれも仕方のないことと言えば仕方のないことかもしれません。長きにわたり心気症と戦ってきて、ちょっとした体の異変を大きな病気と考えてしまう状態だったのですから。

 

でも私が改めて思うのは、体調回復に関してカウンセリングや投薬が大事なのは言うまでもありませんが、外の事柄との出会いも回復にとっては大事だということです

例えば仕事での達成感。「ありがとう、あなたのおかげで助かった」という言葉。自分を受け入れてくれる人との出会い...

これらは自分の中だけでは完結しません。必ず自分以外の外の要素が必要となります。

 

そして罪悪感に関しても、どこまでいけば自分を許せるのか。

例えば公務員になれたら満足するのか、難関資格を取得出来たら納得出来るのか、お金をたくさん稼いだら癒されるのか…(メッチャ欲しいけど!)

いずれにせよ自分の中での線引き、外との出会いに関しても、大事なのは納得感のような気がします。

 

 

5、納得するには

ここで話が少しずれますが、私は目に関して、ちょっと面倒な目を持っています。

片目が人工レンズなうえ左右差が大きい。これによって見え方の調整にとても苦労しています。とはいえ障がい者となるわけではありません。

ここで例に出すのは不適当かもしれませんが、例えば目が見えない人から見たら、私の状態は羨ましいものかもしれませんし、私の苦悩なんてぜいたくな悩みなのかもしれません。

でも私は「目が見えない人に比べたら幸せな方だ」と自分の悩みを過小化しないでおこうと思います。もちろん比較によって、自分が納得して前に進めるのならばそれでもいいのかもしれませんが。

 

私は「完全が10だとした場合の欠けた4の部分」を嘆き、「10持っている人を羨ましい、羨ましい」とこだわり続ける一方、10あるうちの1しか持ってない人が、その1を活かして立派に、受け入れて生きているのを見ると、「自分はなんてダメなんだろう」と自己嫌悪に陥ります。

 

繰り返しますが結局は自分が納得しているかどうかなんですよね...

そして納得の前には感謝か諦めがあるのかもしれません。でも「やだ、やだ」と一つのことにこだわっていたら、本当にネガティブなことにしがみついたまま、死ぬことになります。そう考えると怖くて仕方ありません。

 

 

6、俯瞰的視点を持ちたい

今いる状態から少しでも良い方向に行くにはどうしたらいいのでしょうか。

私はその一つの方法として、俯瞰的視点を育てたいと思っています。

例えば今自分がゴールの見えない巨大迷路に迷い込んでいるように感じたとしても、見学席等の高い位置から見ている人は、「あっちに行けばゴールがあるのに」と思うでしょう。

自分を俯瞰的に見ることが出来れば、「意外と出口は近いのかもしれないな」と気付けるかもしれません。

もちろんゴールが見えていても、そっちに進むのが怖いという時もありますが。

 

私はその第一歩として罪悪感を手放すのではなく、まずは「罪悪感を感じる自分を良しとしてあげよう」と思います。

 

人間は一人で何でも解決出来る程、強くも器用でもないと思います。そして私達人間は昔から哲学や音楽、絵画等、自分の外から励ましや力をもらってここまで来たのだと思います。

今はカウンセリングやセラピー等選択肢は増えましたが、他から力を借りることは人間が昔からずっとやってきた当たり前のことですよね。

 

私はちゃんと自分の足で立つ意志を持ち、多くの方の力を借りて生きていきたいと思います。