強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

先に進む為にこそ自分に許可を

皆さんこんにちは。もち丸です。

前回、前々回の記事で、眼鏡作成についての記事を書きました。

今回はその過程で思った事、そして改めて自分が子供の頃に感じていたことを思い出し、それらが自分にどのような影響を与えていたかを振り返ってみることにしました。

 

 

 

1、開くことこそ最初に必要

これまでの記事で書いたように、私にとって眼鏡作りというのは、とても大きな出来事です。

 

私は眼鏡作りが上手くいけば、「~してみよう」と思っていることがたくさんあります。そしてそのような希望を持った時、久しぶりに体が軽く、心が広がったような気分になりました。

そして思ったのです。「今やらなければならないことをやるのは、言うまでもなく必要で大切なことだ。でも心が閉じた状態で「やらなければ、やらなければ」と焦っても、ほとんどのものは心に入ってこないで、閉じた扉に弾かれてしまう」と。

そしてその改善の為には、「まだ自分はそれをやる資格がないと思ってしまうけど、やってみてもいいんだ」と、自分に許可を出せることが大事なような気がします。

 

 

2、罪悪感があるからこそ心を開く

私は「自分は~が出来ていない。だからこれをやるのは、~が出来てからだ」とずっと思ってきました。

ただそのように自分に許可を与えられていない状態では、例え良いモノに出会えたとしても、こちらの受け入れ準備が出来ていない為、そもそも自分の心に入ってきてくれません。良い出会いに恵まれたとしても、拒絶してしまうのです。

 

だからこそ、「今自分は何も出来ていない、罪悪感がある」と思っているからこそ、次のステップに向かう為に、心を開くことが大事なのだと思います。

その為にはわざとらしい許可でもいいから、「自分が少し興味があったもの」「心に引っかかったもの」を、無理のない範囲で自分に与える許可を出してあげることが、大事なような気がします。

とは言え私も口で言うのは簡単ですが、実行するのは結構難しいと感じます(笑)。

でもそうしないと「今の状況が苦しくて、なんとかしたい。でも動くのが怖い、自信が無い」と、決して快適じゃない今の状況にしがみつくことになってしまいます。自分ではどうにかしたいと思っているのに、今いる状況から一歩も動けない。

そんな時だからこそ自分に許可を与えてあげる。それは自分を甘やかしているのではなく、次のステップに進む為に必要なことなのかもしれないと私は思います。

 

 

3、私が自分に許したこと

この章では自分に許可を与える練習として、私が買ったものをいくつか挙げてみます。本当に小さいことなので、どうか笑わないでくださいね(笑)。

 

まず買い物の共通点として、家族の目につきにくい、比較的小さい物がおすすめです。特にリュックに入る大きさのものは、帰宅時に手提げ袋を見られずに済むのでおすすめです。私の場合は結構無理やりにリュックに押し込んで帰っていました。(笑)

 

ニンテンドースイッチライト

元々「就職が決まったら買おう」とずっと思っていましたが、コロナが始まった年のゴールデンウィーク前に買いました。

当時は緊急事態宣言が出ていて、唯一の気分転換であるバドミントンも出来なくなり、ストレスマックスの時期でした。そこで「ゴールデンウィークもどうせどこにも行けないし、少し位自分が欲しいものを買ってもいいんじゃないか」と思ったのです。

 

他の記事でも紹介しましたが、当時の私はどうしようもない閉塞感を感じていました。その為何か解放感を感じることの出来るゲームがないかなと思っていたところ、「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」を見つけたのです。

そして「ニンテンドースイッチライトなら、部屋でこっそりと出来るな」という、邪な気持ちで携帯型を選びました。

ちなみにこれもリュックにギリギリ入ります(笑)。

 

②漫画

これもおすすめですね。なんといっても罪悪感が薄い!(笑)

まだ調子が今一つの方にもおすすめです。小説等の字が主体の本は、体調が悪い時は中々集中して読めないかもしれません。ですが漫画ならさらっと読むことが出来ますよ。

 

③アロマディフューザー

私はホームセンターやアロマショップで、自分の好みの香りを探すのが好きです。

特にホームセンターはアロマ専門店等と違って店員さんが話しかけてこないので、人目が気になる人にもおすすめです。

 

私は香りを感じると「田舎に帰った時のばあちゃんの家の匂いだ」、「昔小学校で感じた匂いだ」等、当時の記憶とその時の感覚がリアルに思い出されます。それがなんとも懐かしくホッとします。

特に私が好きな香りは「ヒバ」や「ヒノキ」等木の香りです。特にヒバの香りは雨が降った後の土や木の匂いがして、とても落ち着きます。

アロマオイルはディフューザーを使わなくても、小瓶のまま香りを嗅いだり、ティッシュに数滴垂らして置いておくだけでも充分楽しめます。

 

 

4、自信の無さはどこから来たのか?

私はこれまでずっと自分の行動力や決断力に自信がありませんでした。その原因はいくつか思い当たりますが、その一つに親の影響があると思っています。

ただそれはあくまで原因の一つであり、自分にも問題があったということはしっかりと認識しているという前提で話をしていきます。

 

私は昔親、特に母親のことが怖かったです。そして私は昔から何かするのに親の許可を強く必要としていたような気がします。

例えば服を買う時に、私が「これがいい」と言い、それに対して母が「こっちの方がいいよ」と言ったとします。そうすると「でも…」といった具合に私は納得はしないものの、「絶対こっちがいい」とは言い切れませんでした。それは例え自分が好きなものを買ったとしても、その後しばらく家の空気が悪くなることの方が辛かったからです。

 

もう一つ例を挙げますと、例えば「5時に帰ってきなさい」と言われると、5時を1分でも過ぎると、ドアにカギをかけられます。その為私は友達と遊んでいても、5時が近くなるとそわそわし始め、5時までに帰ることが最優先事項となります。また少しでもご飯を残すと、それをいきなり流し台に捨てられ、「もう食べなくていいい!」と空気が悪くなることもありました。

子供の私にとっては、それは恐怖そのものです。

そして「自分の行動や言動がきっかけで、家の空気が悪くなるくらいなら、自分の気持ちをそっと飲み込み、母の望む行動を自分がとれば居心地よく過ごせる」。そんなことを思うようになっていったと思います。

加えて高校生の時に神経症になったことで、ますます自分の力を信じられなくなってきました。

 

つまり私は自分の考えを基に行動し、その結果得られた成功体験が少ないのだと思います。

だからこそ「自分が決めた答えは本当に正しいのか?」、「みんなが普通にやっていることが何故自分に出来ないのだろう」。そんな風に思ってしまうのです。

 

 

5、自分が決めて行動すると上手くいくのかもしれない

そんな私ですがこのブログで書いてきたように、小さな決断や自分を大切にすることが大事なことに少しずつ気付き始めました。

そして小さくとも自分が考えた行動をとり、それが結果に繋がることで、わずかではあっても今の行き詰った現状に、良い変化が出ることがありました。

そして自分の考えは未熟で結果には繋がっていないかもしれないが、少なくとも「間違っていないのではないか」と思う事が出てきました。

そうすると「ひょっとして自分がやると決めた行動は、自分を良い方向に変えてくれるのではないか。自分で決めた方が上手くいくのではないか」と思うことが少しずつ出てきたのです。

このようなことについて触れている本はたくさんありますし、「今更何を当たり前のことを」と思われるかもしれません。でも私にとっては新鮮で、希望なのです。

 

冒頭で触れた「眼鏡作り」も自分が探し、自分で決めた行動です。これがどのような結果になるかはまだわかりませんが、上手くいけば自分にとって大きな自信になる気がします。

 

 

6、人は元々力を持っている...?

もしかしたら人は元々自分で動いていける力を持っているのかもしれません。それが親や友人等の人間関係の中で自信をなくしたり、挫折や病気等の困難にあったことで、「自分には無理だ」「次も上手くいかない」といった思いを繰り返し自分に刻んでいく。そして自分に自信を無くし、行動や思考、ひいては人生に対する態度が変わっていくのかもしれません。

 

とはいえ沁みついてきた思考は、簡単には変えられません。

ひょっとしたらもう遅いのかもしれない、また心折られて更に自信を無くすかもしれない。それでもしっかりと振り返り、向き合い、そのうえで新たな自分の考えを上書きしていく。その上書きの回数が多くなれば多くなるほど、思考も変わっていくのではないでしょうか。

 

私の神経症を振り返ってみても、長い間神経症に苦しんだことで、もう元の自分に戻れないと思っていましたが、神経症になる前の自分、そしてその頃の感覚も無くなってはいませんでした。

それならば「自信を失っていない自分」、「自分で決める力のある自分」も、無くなっておらずに自分の中にいるのかもしれません。

 

もちろん私も「決断力は最初から完成しているものではなく、決断を重ねることで培っていくもの」だというのはわかっています。それでも小さい頃は失敗を恐れず、色々なものを口に入れたり、親が目を離した隙に、自分の足であちこち動き回っていたはずです。

そんな風に元々自分の心のままに動く力を、私達の誰もが持っている。大げさかもしれませんが、そんなことを思いました。