強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

「境界」なんて無いのかもしれない

こんにちは。もち丸です。

最近寒いですね。そのせいか肩こりが酷いです。色々ヨガや運動等、凝りをほぐすようにしているのですが、中々手ごわいですね。早く何にも気にせず外出出来る状態になって欲しいです。

 

本題に入る前に、少しコロナについて愚痴を言わせてもらいます。

つくづくコロナは恐ろしいウイルスだと思います。健康被害に関しては言うまでもありませんが、人から繋がりと機会を奪うウイルスでもあると思います。

家族や友人と近距離で話すことにも気を遣い、自分の近くに来た人や咳をしている人を警戒して、ピリピリしたりもします。

またコロナに対する感覚の違いから、友人や家族の間でも溝が出来ているという話も聞きました。

「あの人はなんて無神経なんだろう!」、「人は普通に行動しているのに自分は我慢している!」。そんな思いをしている人も多いのではないでしょうか。

価値観は人それぞれとは言うものの、面倒な世の中になったものですね。

コロナ渦において医療・福祉関係者等、自分の役割と使命を果たしてくださっている全ての方に、感謝と敬意を表します。

 

 

さて今日は「境界」というものについて自分の考えを述べていきます。私は昔から「こうでなければならない」という考えが強いです。それは自分を律する為に必要な概念でもありますが、自分を苦しめる考えでもあります。

やっぱり大多数のなかにいると安心します。自分の考える「ライン」より上でありたい、こちら側の人間でいたいという考えが強いのです。

でもなかなかそのラインに達しない、それが苦しい。というわけで「そのラインってなんだ?境界って何だろう」という疑問について考察してみました。

 

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、境界とは?

「境界」の意味は、物事や概念を分類する為の基準点(線)、境と言った感じでしょうか。つまり「境のこちら側とあっち側」というように物事を区切る考え方や表現です。それによって分類や区分、カテゴリといった概念が生まれると思います。

この境界を作ることによって、私達は判断や学習しやすくなるといった利点を得ることが出来ますね。

 

 

2、自分にとっての境界

私自身は人と比べてしまう事が多いです。簡単に言えば自分が欲しいと思っている多くのもの、それを「持っている人」と「持っていない自分」という比較をしてしまいます。

そして比較には「皆凄いなぁ、それに比べて俺は」のような人との比較や、「病気になっていなければ今頃こういう状態なのに」というような理想の自分との比較があります。そういう意味で私は「持たざる者」として自分を評価してしまいます。(すまん、自分!)

そして仕事が充実している人、肩書を持っている人、結婚している人、子供がいる人等々、自分が持っていないものを持っている人との間に「差」を感じ、寂しい、羨ましい、悔しいといったネガティブな感情を募らせています。

あんまりいい傾向ではないですね。

 

 

3、境界の曖昧さ

その一方で今まで色々な人の話を聞いてきて、この「境界」というものは非常に曖昧なものなんじゃないかと感じることも多々ありました。

例えば「健常者と障がい者」、「健康と不健康」、「強い人と弱い人」、「勝ち組と負け組」….

 

一例として「健常者と障がい者」の境界を考えてみると、これも曖昧です。

例えば飛蚊症や耳鳴り。私は両方ありますが、これはほとんどの場合大きな心配はなく、当然障がいとは考えられていません。

ですが人によってはとても苦しく、ノイローゼになる人もいます。もちろん社会的には障がい者とは判断されず、辛さが人に理解してもらえないこともあると思います。

他にも世の中には障がいとは言えずとも、苦しみの原因になり得ることはたくさんありますよね。

 

どこまでが「健常者」で、どこからが「障がい者」なんだろう。

障がい者手帳の有無?」、「日常で人の助けがいるかどうか?」、「日常生活に支障が出るかどうか?」...

非常に線引きが難しいです。そもそも線引き自体に無理があるのかもしれません。

 

また実際に採用面接で言われた「うちはメンタルが強い人を採りたい」という言葉。

でもメンタルが強い・弱いの差って何だろうとも思います。これ発言する側は何気なしに言っていると思いますが、そんなことは誰にもわからないと思うんですよ。

確かに打たれ弱い人はいると思います。私もそうかもしれません。でも世間一般で打たれ強い人とみられている人が、うつやパニック等にならないかというと、そんなことはないんですよね。

 

私が参加したリワークプログラムでも、かつて部下が休職した時「もっと鈍感にならないと駄目だよ」と声をかけたという人がいました。その為「まさか自分がうつになるなんて思わなかった。かつての部下に申し訳ない」と言った方がいました。

また別の60代の方は現役時代は企業戦士として、休みなく全国を飛び回って仕事をしていたそうです。その方は定年になってからうつ病を患いました。

 

そのような話を聞くうち、「打たれ強さ・弱さがメンタルヘルス不調に直結するとは言えない」という考えを持つようになっていきました。

 

 

4、誰でも境界を飛び越える可能性がある

私を含め多くの人が、「自分は境界のこちら側にいる、だから安心」という考えを少なからず持っているように思います。

でもその「自分はこちら側にいる安心感」も、ある日突然崩れてしまう事があると思うんです。

ある日突然病気や事故にあい、何かを抱えることになるということは誰にでも起こりうることです。そしてそれをきっかけとして「境」のどちら側の住人であるかが変わってしまう、つまり「境」を飛び越えてしまうことは誰にとっても他人ごとではありません。

 

とは言え自分や親しい人がそういった事態にならない限り、そのことをリアルに感じることはあまりないですよね。

そういった意味で誰もが「自分はこちら側だから関係ない」ではなく、「自分もいつ当事者になるかわからない」と考えることば出来れば、よりよいサービスや商品の提供、ひいては暮らしやすい社会に繋がっていくのではないかと思います。

 

 

5、自分が持っている物

自分の健康や持っている物の一部を失う。その時、元の完全な状態から欠けたものを嘆き、そこに集中してしまうと絶望します。何とか元に戻りたいと時間と労力をかけ、それでも希望が見えない、これは本当に苦しいです。私もその気持ちは少しですが分かります。

それに対してパラスポーツ選手等、何かを抱えながらも活き活きと生活している方は、その欠けた部分ではなく、自分に残されている部分で生きていくとシフトチェンジ出来た人達なのかなぁと思います。私もそう生きていきたいです。

 

自分の持っているものは何だろう。

・不便だけどちゃんと見える目

・大卒という学歴

・ブランクの中でも成長しようと取り組んできた事

・(一応)論理的思考が出来る頭

・大切な家族、そして家族に愛されている事

・心配してくれる友人

・人に相談出来る力

・最低限のPCスキル

・住む家があること…

 

私は「もし家族がいなければ今頃家賃も払えずホームレスになっているのかな。人から見たら恵まれてる甘ったれなのかな」と思う事がしょっちゅうあります。

そして自分の持っていることより、自分が持っていないことに目が行きます。これからは少しずつでも自分の持っているものに注目したい。

そういう力が私は欲しいです。

 

 

6、最後に

今回は自分なりに「境界」について思う事を書きました。

世間一般的な感覚として、境界というのは間違いなくあると思います。でも一番境界にこだわり、自分にレッテルを貼っているのは自分だということもわかっています。

このあたりに自分が感じている息苦しさや、視野の狭さの一因があると思います。

 

今コロナの影響で心身のバランスを崩している人は多そうですよね。一日でも早く穏やかな日々が戻るのを、心から祈っています。

最近急に寒くなってきましたので、温かいものを飲んで免疫力をつけ、この寒い冬を一緒に乗り切っていきましょう。