強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

随筆 「苦悩の意味」

こんにちは。もち丸です。

今回は気持ちの整理としての記事です。その為文体も「ですます調」ではなく、思ったままの言葉として書いていきます。

普段と違い文脈整理も程々なので、読みやすさはあまり考えません。(笑)

 

 

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辛い、本当に苦しい。

どこから進めればいいのかわからない。誰か教えてくれ。

 

向き合うことは出来たけど、その先に進めない。

いや、もしかしたら本当に怖いこととはまだ向き合えていないのかもしれない。全てと向き合ったうえで進む事が出来ている人はいるのだろうか…

 

でもこれ以上向き合っても徹底的に情けない自分しか出てこない気がする。振り返って向き合ってきて、わかったことや前に進む事が出来た部分は滅茶苦茶大きい。でもそれ以上に出来ていない事、足りないと思う事の方が多すぎて、とても釣り合いが取れない気がする。

 

今自分に必要なことはなんだろう。向き合う事?動くこと?認めること?相談する事?バイト?覚悟?…

 

でも今はコロナがうっとうしい。行動量を増やしたいけど、常にコロナが邪魔をする。自分一人だけならまだいいけど、俺は家族と同居している。しかも重度の喘息持ちである父とがん治療中の母。この二人に絶対にうつすわけにはいかない。もしうつしたりして何かあったとしたら、一生自分を責め続けることになる。「あのとき自分が~しなければ」と。

 

幸い母は「もしあなたからうつったとしても、絶対にあなたのせいじゃない。罪悪感を持つ必要はない」と言ってくれてる。 

でも本当にそうなったとしたら母に言われたとしても、自分が自分を許せないと思う。

そんなことを考えると、「早くしないと」と思うけど、行動にブレーキをかけてしまう。

 

でもそれももしかしたらコロナを理由に使っているんじゃないか?

「自分が怖いと思う気持ちを正当化する為に、コロナや母の病気を理由にしているんじゃないか?」とも思ってしまう。

そんなことを考えると怖くて仕方がない。幸い今は自分の貯金でなんとかやりくり出来ているけど、今家族に何かあったら自分はどうなるんだろう。

いや、これまでだって家族がいたから、何とか病気の時だって生活出来ていたんだ。一つ違っていたら、自分は野垂れ死んでいたのかもしれない。

そんなことを考えると、とてつもなく自分が情けない存在のように思えてくる。

 

動きたい、でも動くのが怖い。アクセルを強烈に踏み込むと、同時にそれ以上にブレーキを踏みこんでしまう。ならば今の自分が先に進む為には、アクセルを踏み込む強さを更に強めることじゃなくて、ブレーキを弱めることなんじゃないか。アクセルを踏み込む強さは既にあるわけだから、ブレーキを緩めれば車の前に進む力は今より出るだろう。

 

今の状況で出来ることはないか?

今の状況で一歩でも進むこと。ブレーキを緩めてやることは何かないのか?

 

まず浮かぶのがネットを使って行動範囲を広げる事。自分の気持ちを大切にすること。そして浮かんだことをおっかなびっくりでもいいからやってみること。

常に自分を責め続ける自分の声が今の自分をストップさせようとするが、それでも一歩だけでも今までの範囲を踏み越えてみる事。これをやっていくしかない。

そして0.01でもいいから昨日の自分がやらなかったことをやってみる。0.01の行動は次の0.02の行動を始める為の呼び水となる。その繰り返しでしか自分の人生を作っていくことは出来ないのだろう。

 

0.01の新たな行動なら絶対に出来る。

 

もうあまり時間的猶予もないけど、ここからやるしかない。そう思うとこれまでの自分は様々なことを乗り越えてきたけど、出来なかったこと、得られなかったことが悔しい。

 

でもこの前読んだフランクルの「人間とは何か」の一節。

 

「その問題を恥ずべき神経症としてではなく、人間的な問題として受け入れるようになる」という言葉。これには本当に救われた。

自分のこれまでが救われる、報われることはくるのだろうか。今回は綺麗な言葉ではまとめたくない。

 

本当に皆悩んでいるのだろうか?自分だけが進めていない気がする。

自分以外の皆が凄い人間に見える。自分は自分を認めてあげられず、責め続けている気がする。

でもそんな苦しいことはもう終わりにしたい。

自分の中から見つけ出すことが正解なのか。それとも外との繋がりによって見出すことが正解なのか。コロナによって外との繋がりが薄まっているけど、そんな状況でも出来ることは何だろう。

なぜ自分にブレーキをかけているのだろうか。コロナと家族の病気は間違いなくある。それは仕方ない。でも心理的なブレーキも間違いなくある。

怖さ、臆病さ、劣等感、恥の意識、プライド….

 

諦めたくない。自分は100%を望んでいる。100%の安心、完成度。そういう意味で言えば自分は間違いなく神経症的性格なのだと思う。でもフランクルはそういったものを責めないし、運命的なものとして変えられないものとも言っていない。

さてどうするか…

 

でも本を読み進めていくと、ちょっとずつ自分の理解が進む。知的理解だけでは解決しない問題はたくさんあるけど。

自分が100%納得すること、納得出来る人生、確実さを追求すると、自分の人生の持ち時間がどんどん無くなってしまうことはわかった。

 

バイト。でも今はコロナ感染リスクを減らしたい。じゃあネット使ってできるバイトは?うーん、やったことないし不安だし。

自分はなんて甘ちゃんなんだろう。また自分を責めているぞ。このグルグルから抜け出すには、そして少しでもいい循環に入っていくには、今何をしたらいいのか。

 

一気に考えると、全てが怖くて一歩も動けない。一個だけやろう。一個だけならやるのは楽勝だ!

失意の中で耐え抜き悩んできた時間なら、そんじょそこらの人には負けないと思う。

俺になら出来る!!