強迫性障害を乗り越えた先に

強迫性障害が治る時、それは新たなスタートです。

私が持っているモノの価値

皆さんこんにちは。もち丸です。

最近テレビでは気が滅入るニュースばかりが流れますね。私は母が病気になったことで、大切な人とのなんでもないような日常が、どれだけありがたいことなのかに気付きました。その為その幸せが、ある日唐突に奪われることに強い憤りと悲しさを感じます。

私はこれからの大切な1日1日を、丁寧を生きていきたいと思います。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

 

1、私は自分を大切に出来ていない

今回の記事は表題の通り「私が持っているモノの価値」、そして「私の持ち物を羨ましいと思う人はいるのだろうか」というテーマについて書きます。

このテーマの記事を書こうと思ったきっかけは、「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法(日本経済新聞出版)」という本を読んだことが理由です。これはコミュニケーションテクニックの教本でもあり、自分と他者双方を大切にする為の心構えも紹介しています。

 

私はこれまでメンタル・自己啓発系の本を多数読んできました。この本は最初テクニック系の本かなと思ったのですが、読み進める中でいくつもの気付きがありました。特に気になったのは「自分の抱える罪悪感」や「の意識の危険性」についてです。

そしてなるべく心を閉じないように本を読んでいると、いくつかの記憶がよみがえってきました。

そして思ったのです。「自分は自分を大切に出来ていないなと」。

 

 

2、「罪悪感」と「恥」

これまでもブログで触れてきましたが、私は自分自身を肯定出来ていない部分がたくさんあります。

「私はまだ何も出来ていない」、「親に心配かけてばかりで申し訳ない」、「他の人と比べて自分は」…etc

 

要するに自分の経歴やスキルに自信が無く、自己肯定感がとても低いのです。それに対して周りの人全員がとてもしっかりしているように見え、「大きな差」を感じています。

それは本に記されている「罪悪感」「恥」にも繋がります

これまでもそのような心情について書いてある本を読んだことはありますが、今回は妙に引っかかったのです。そしてふと「本当に皆罪悪感とか恥とかの感情を感じているのか?大体の人は俺より色々しっかりしてると思うんだけど」と思いました。

 

つまり私からすると他の人が持っている経歴・スキル・立場等がとてもまぶしく見え、反対に自分の経歴・スキル・立場等に自信が持てないのです。

他の人の「持ち物」と自分の「持ち物」に、大きな隔たりがあるように感じる。でもこの本を読んだ時に少しだけ、「自分が持っているものって本当に全部駄目なんだろうか」と思ったのです。

 

 

3、不完全でもありがたい?

このブログでも何回か触れましたが、私の母は肺がんです。しかも今年の初めに積極的治療が終了してしまい、今は緩和ケアに入ったという状態です。

 

母の抗がん剤治療は今年始めに終了しましたが、後遺症はまだ残っています。確かに休薬したことで後遺症は回復しつつあるのですが、足先の皮膚荒れが特に酷い状態です。その影響で普通に歩くことが出来ず、まるでペンギンのようにつま先を上げながらでしか歩けないようです。しかも痛い箇所をかばう歩き方故、他の場所も筋肉痛になる等苦労しています。

そんな母を近くで見ていると、「普通に歩けることがどれだけありがたいことか」と今更ながらに思います。

他にも私はがん患者とその家族が利用出来るコミュニティサイトを利用していますが、そのサイトでも多くの方が病気やその治療によって、様々な悩みを抱えていることを目にします。

 

ここでようやく本題に入ります。

「今病気と闘っている人から見ると、私の体を羨ましいと思う人はいるんだろうな」と思ったのです。

もちろん私もこれまで苦痛が無かったわけではありません。今も思うようにならない部分がたくさんあります。それにがんという病気を抱えている方と、私の悩みや苦しみも比較出来るものでもないと思います。悩み苦しみはその人だけのものであり、決して比較出来るものではないからです。

それでも色々ありながらも自由に動ける体を持つ私を、今思うように体が動かない方から見ると、「素晴らしいものを持っているじゃないか」と思う人もいるだろうと思ったのです。

 

 

4、自分が持っているモノの価値

もし私が体に重い障害を抱えている立場だとして、今の私のような人を見たとしたら、

「年齢?そんなのどうとでもなるだろう」

「目が悪い?それでも見えるだけ羨ましいよ」

「スキルとか経験が無い?それこそこれからどうにでも出来るだろう」

と思っても不思議ではないと思いました。

 

私は今でも母に奇跡が起きて欲しいと祈っています。それでも例え本人に落ち度がなくても、どうにもならない状況に陥ることがあるんだと思い知らされています。

私は「私の苦しみを軽くは見積もらない」ことにします。それでも私の今の状況は「どうにもならないことではないのかもしれない」と思います。恐らくどうにもならないことは他にある。

 

別に自分より辛い状況にある人を物差しにして、「自分の方が恵まれている」と思いたい訳じゃないんです。でも曲がりなりにも自分の身体を自分の意思で自由に動かせることが出来、差し当たっては命の危険が間近に迫っているわけでもない。これは間違いなく私が持っている「もの」なんだとも思うのです。

私は眼鏡作りに苦労しない人を羨ましく思う事がしょっちゅうあります。「なんで他の人が苦労しないで出来ることに、自分は苦労しなければならないのか」と。

でも「あなたは私が欲しいと思うものを持っているじゃないか」という気持ちが、自分に対して向けられてもおかしくないなとも思ったのです。

 

 

5、気付いた後にどうする?

私は今ハッキリ言って比較の世界に生きていると思います。上を見ればきりがなく、下(この表現はどうかと思いますが)を見てもキリがない。

もしかしたらある人から見たら、私は「持っている人」なのかもしれません。そしてその気付きを自分を責める為にではなく、活かすことに使いたいです。「持っているのに出来ていない」のではなく、気付きは前進だと信じたいです。

 

とりあえず今出来ることはなんだろう。過去を後悔し続け、未来に不安を持ち続ける今でも、例えば1日1個英単語を覚えること位なら出来そうです。「千里の道も一歩から」、「ローマは1日にしてならず」ですね。

準備の為の人生で終わりたくありません。ずっ~~と「来年こそは」と言い続けて終わりたくはありません。

 

 

6、最後に

やはり改めて思うのは、自分への敬意はとても大切だということです。

ただ自分を大切にするということは、言葉としては理解出来ますが、具体的にどうするかというと難しいです。ただ自分を責め続けるということとは逆のような気がします。

 

今私のブログを見ている方の中にも、今辛い状態にあり余裕が無い人もいると思います。そのような状況で自分を大切にするのって、結構難しいですよね。上っ面ではなく、自分を大切にするにはどうすればいいのか。

現時点で明確な答えはわかりませんが、最後に私が何度も読む本の中で、何度も救われた素晴らしい文章を紹介して終わりにします。

 

『どんな時でも、人生には、意味がある。

この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」があり、「誰か」がいる。

そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見されるのを待っている。

だから、たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。

あなたがすべてを投げ出しさえしなければ、いつか自分の人生に"イエス"と答えることのできる日が必ずやってくる。

いや、たとえあなたが人生に"イエス"と言えなくても、人生のほうからあなたに"イエス"と光を差し込んでくる時が、いつか、かならずやってくるはずだ』

 

※「〈生きる意味〉を求めて V・E・フランクル著 春秋社」

悩みの中で。~私は何に怒っているのか~

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

かなり久々の記事更新になってしまいました。最近母のがん治療が続けられなくなってしまったこともあり、かなりバタバタしていました。

近いうちに私が強迫性障害を回復するのに役立った本を紹介したいと思っているのですが、もう少し時間がかかりそうです。

最近精神的にはギリギリで、「怒り」に支配されている気がして苦しいです。

そこで今回は何に怒っているのかを吐き出すことで、感情の整理をしたいと思います。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、姉に腹が立つ

「怒り」をキーワードとした時に、今一番最初に浮かぶのは同居しているです。

 

私は現在母が肺がん+肺炎父が重度の喘息ということから、コロナ対して危機感を強く持っています。更には二人とも高齢の為重症化リスクは非常に高く、感染した場合は命にかかわる危険性があると思っています。

その為私は2020年の3月頃から外食は一度もしていませんし、友人とも2020年11月頃から一度も会っていません。

それは私自身が感染することよりも、家族にうつしてしまうことが何よりも怖いからです。

 

現在私は両親と姉の4人暮らしですが、私と両親は大体同じレベルの危機感を共有出来ていると思います。ですが姉だけが少し感覚が違うようなのです。

基本的に姉も真面目で社会のルールを大切にするタイプですが、現在も趣味のスポーツや英会話教室等に参加する等、私から見ると危機感が足りないと感じイライラします。

 

私はコロナにかからないよう、細心の注意を払っています。ですが家で一人がリスクある行動をとってしまえば、それは家族全員のリスクになります。私はそれが許せないんです。

これまで何度も話をしてきましたが、「気を付けているから」、「他の人はもっと行動している」等と、折り合いは付けられませんでした。

最近は家庭内でもあまり会話はせず、非常に居心地が悪い状態になっています。

 

 

2、父に腹が立つ

父に関して本題に入る前にお話しておきますが、私は父に心から感謝しています。これまで育ててくれた恩、今も理解者でいてくれる恩等、精神的にも経済的にももう返しきれない程のものを頂いてきました。それは絶対に揺るぎないものであります。

そのうえで言いたいことは、「親父、もう少し家事に参加してくれよ」です。

 

元々我が家は父が外で働き、母が一切の家事を行うというスタンスでした。それは良いか悪いかで判断出来ることではありませんし、同じスタンスの家族も多いと思います。

ただ母が病気になりこれまで通りに動けない以上、家庭内での役割分担は変わらざるを得ません。

父も色々な家仕事をやってくれますが、料理だけはしようとしないんですよね。その分他の仕事をしようとしていますが、他の家仕事をすればするほど、「料理」に近づこうとしない姿勢がハッキリと目立つのです。(笑)

私も苦手なりに料理をするようになりましたが、抗がん剤治療で体が辛い状態の母に、それでも料理の一切を頼るというのは、「こんな状態でも作ってもらおうとするのか」と見ていて腹が立ちます。

ただ父は今70代。この世代に「男は家事をしない」環境だった人は多いと思うので、「こんなものかなぁ」とも思うのですが...

 

 

3、母に腹が立つ

この項目についてはこんなことを書くと親不孝なんじゃないかと思ってしまうのですが、思い切って書いてみます。

それは「母さん、なんで病気になったんだ」という怒りです。

 

母は抗がん剤による治療を続けていましたが、先日積極的治療が終了となってしまいました。

まだ他の治療選択肢がないわけではありませんが、現在の母の健康状態などを踏まえ、治療を続けるリスクと恩恵を天秤にかけ、そのような結論になったのです。

これからは緩和ケアを受けることになりますが、家族である私も本当に苦しいです。

 

もちろん母も病気になりたくてなったわけではありませんし、母自身も色々な想いを抱いているはずです。でももっと早期発見が出来たんじゃないだろうかと思うのです。

 

その大きな理由として、20年近く健康診断を「億劫だから」という理由で受けていなかったことがあります。もちろん健康診断を毎年受けていたとしても、発見が遅れてしまうケースも多々あります。

それでももう少し発見が早ければ、他の治療選択肢があったかもしれませんし、遠隔転移も無かったのかもしれません。

私自身もっと母の健康に注意を払っていればという、自責も大きいです。

そして母をサポートする中で、「結局何かを面倒がると、後で大変なことになるんだよ」と言いたくなり、その言葉をしょっちゅう飲み込んでいます。それは自分にも言えることだからでもあります。

 

 

4、周りに腹が立つ

これは半分八つ当たりのようなものです。(笑)

私は自分の意思で、現在行動自粛をしています。一方私の周囲にはこれまで通り食事やバドミントンを続けている人も多く、「なんでそんなに危機感がないんだ!いくらこっちが気を付けていても、皆が行動するせいで状況が落ち着かないんだ」と怒りが湧いてきます。

 

ただコロナに対する考え方は、その人の価値観、仕事内容、家庭環境等により、違っていて当然というのも頭では分かります。「自分と同じように自粛しろ」という押しつけが入っているのも間違いない事実だとも思います。

現在そのような友人とは距離を置いており、仕方ないとはいえ少し寂しいです。

 

その一方で新たな縁や久々に繋がるようになった友人もいます。正にご縁だと感じています。

今は何が何でも皆と繋がる必要はないと考え、今ある縁を大切にしていきたいと思います。

 

 

5、自分に腹が立つ

これまで色々な怒りについて書いてきましたが、一番大きいのは「自分への怒り」かもしれません。

「母を心配させている」、「まだ母に何も親孝行出来ていない」等々、自責の念はとても大きく、ちょっとしつこいですね。

またコロナや家族の看護等を、行動しない自分を正当化する理由にしているんじゃないかと思う事もあります。

 

とは言え何もしていないわけではありません。母の病気看護や就活をする中で、この期間に少しでもスキルアップしたいとの思いから、色々な勉強をしています。先月もそれほど大きい資格ではないのですが、PC系の資格試験の合格を果たしました。

ですが私にはこれも時間稼ぎのような気がしてしまうのです。

もし仮に私の友人に「今就職活動をしながら、家族を看護している友人」がいたら、きっと「今のあなたの状況ならきつくて当然だよ。そんなに自分を責めないで」と言葉をかけると思います。

でも自分に対してはそんな優しい言葉をかけられずに、益々自分を追い込んでしまう。正にダブルスタンダードですね。

 

私は今の状態で更に自分に鞭を打つのは危険だと思っています。むしろ今は少しアクセルを緩めてでも、自分を大切にすることが必要だとも思います。

でも「何も出来ていない」と自分を責め続けるのは、なかなか止められません。誰一人として私にそのようなことを言う人はいないのにです。

そのようなことを思っていると、ふと苦しくなりました。「私は今色んなものに縛られている」と。そしてエネルギーが無いから苦しいのか、エネルギーを正しいベクトルに使えていないから苦しいのかどちらだろうという考えが浮かんできました。

 

とりあえずしばらくは、やりたいと浮かんだことの中で今出来そうなものをやってみようと思います。「~が落ち着いたら」ではなく、今出来ることを自分がやるのを良しとしようかとも思い始めています。

元々私は好奇心や何かを好むエネルギーが強い方ですから、許可をちゃんと出してあげたら色々と出てきそうではあります。

 

 

6、コロナに腹が立つ

さて次はコロナに対する怒りです。コロナには人権は無いので、遠慮することはありません。(笑) 

 

私は心の底からコロナが憎いです。

「おいコロナ、お前のせいで気軽に外出出来ずに、ストレス溜まりまくりだぞ。しかもしぶとく何度も変異なんかしやがって。本当にムカつくな。あんまり人間をなめんじゃねーぞ。そろそろ人間のしぶとさと恐ろしさを教えてやるよ」。

 

人から機会、場所、繋がり、健康を奪ったコロナ。本当にコロナが憎いです。

 

コロナさえ無ければもっと母を色々な場所に連れて行ってあげられるのに。

コロナのせいで全ての行動がいちいち面倒になっています。

何かしようとしてもコロナがいちいち邪魔をする。気分転換の運動や食事すら気軽に出来ません。

そしてコロナに対する考え方の違いから、人と人との分断も生まれています。

早く落ち着いて欲しいですね~。

 

 

7、最後に

今回は特に何かを生み出す為の記事ではなく、感情と思考のデトックスです。

でも改めて記事を見てみると、ずいぶん自分本位の考えがありそうで、少し情けないですけどね…

 

今色々と疲れている皆様。それぞれ事情があるでしょうし、なかなか自由に振舞えない環境かもしれませんが、少しだけペースを落としてみませんか?

色々な人が優しさを与えてくれても、最終的にはその頂いた優しさを自分に届けることが出来るのは自分しかいないのです。

いくら人が認めてくれ、慰めてくれても、「いやいや、自分はまだ駄目だ」と思っていては、人の言葉は自分に届かないのです。

普段あまり自分を大切に出来ていない私ですが、これからは自分を許して自分と一緒に歩いて行きたいですね。

漢方治療について

皆様こんにちは。もち丸です。

 

いやぁ、最近寒すぎませんかね?ついこの間まで半袖で過ごしていたのに、秋を飛び越していきなり冬モードになってしまいました。

あーあ、秋も冬も嫌だな。早く夏にならないかなぁ。という今日この頃です。

 

さて今日は漢方についてまとめてみました。私は現在漢方内科に通っていて、それもあってか例年よりも確実に体調が良いです。

ただ漢方はとても歴史が古く非常に奥深い分野です。そして今回の記事は私自身の見解が多分に入っている為、正確な知識とは少し違っているかもしれませんが、その点はご了承ください。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、漢方って何?

簡単に説明すると漢方とは生薬を組み合わせたもののことで、生薬とは自然界にあるものの中で体に良い影響を及ぼすもののことを言います。

生薬の多くは植物由来だそうですが、中には骨や鉱物を使っているものもあるそうです。ともかく元々自然界に存在するものというのが、大きな特徴です。*1

 

多くの人が「風邪には葛根湯」というイメージがあると思いますし、養命酒や救心等も生薬由来の健康商品ですので、生薬というのは思ったより身近な存在なのかもしれません。

ちなみに西洋医学の医師も一部漢方を扱いますが、この漢方を専門に扱い治療を行う医師のことを漢方専門医と言います。

 

 

2、東洋医学と西洋医学

私個人の感想ですが東洋医学と西洋医学は優劣の関係ではなく、それぞれ得意分野、苦手分野が違うというイメージです。

 

f:id:yoneson:20211022145845p:plain

 

f:id:yoneson:20211022145909p:plainと言ったところでしょうか。

 

西洋医学は体の問題個所が特定出来る時は、かなりの効果が期待出来ます。

それに対して「体調は悪いけどはっきりした原因が分からない」場合には、東洋医学が役立つかもしれません。

 

色々な検査や治療を行っても状態が改善せず、それでも痛みが取れない場合に痛み止めを使うのはありです。でもこちらが「痛い」と訴えているのに、ロキソニンを処方して終わりというのは、果たして治療と言えるのでしょうか?私にはそうは思えません。

それに対して東洋医学は患者の訴えを非常に重要視します。例え画像や数値に異常が無くても、痛いのであれば痛いのです。そこを大事にしてくれる印象です。

 

東洋医学には心と体は一つであるという、「心身一如」という考えがあります。それに対して西洋医学は体と心を分けて考えます。(更には体をより細かくパーツ毎に分類します)

その為例えば西洋医学の整形外科では、「足が痛い」訴えには対応してくれますが、「気分が優れない」、「精神的にキツイ」という訴えに関しては、「他の病院で診てもらってください」という対応になります。(ある意味当たり前ですが)

それに対して東洋医学は心身一如に加えて、体は全て繋がっているという考えのもとに診察してくれますので、辛い症状全てを伝えて大丈夫です。その全てを判断材料にしてくれます。

 

 

3、精神科と東洋医学

またここで精神科について少し考察してみます。

一般的な精神科ではこちらの症状の訴えに対して、薬の種類や量を決めるという流れです。つまり薬を処方する為に診察がある感じです。

でも心身が苦しくて精神科に行くとき、私達の多くは「先生にじっくり話を聞いてもらいたい」と思うのではないでしょうか。ところが実際は1時間くらい待っても診察はたったの5分位で、しっかりと話を聞いてもらう時間を持つのは難しいのが現実です。

 

もちろん患者の言葉をじっくりと聞くことを大切にしている先生もいますが、じっくりと話を聞いてもらう為にはカウンセラーを利用しないといけないことが多いです。

※ちなみに私は昔もっと話を聞いて欲しいと訴えたことがありますが、先生は「それは後にしてください、私はカウンセラーじゃないので」と一蹴された経験があります。

 

対して東洋医学は先ほど説明した心身一如の他、「異病同治」「同病異治」という言葉があります。それは異なる症状の人二人がいたとしても同じ治療を、もしくは同じ症状があっても、人によって違う治療をするというイメージです。その意味で東洋医学はオーダーメイド治療といってもいいかもしれません。

またうつや不安障害の治療に漢方を使う精神科医もいますし、東洋医学においてもうつや不安障害に対するアプローチがあるそうです。

 

 

4、私の漢方治療

さて私が漢方内科を受診したのは理由があります。受診当時私は転職活動や母の病気、さらにはコロナの影響が絡まって、精神的にはギリギリでした。

感じていた不調は「耳鳴り」、「お腹の不調」、「手足の冷え」、「心身の緊張」等です。

 

色々な相談出来る場所を作っていはいたものの、それだけでは限界に来ていましたし、例えもう一度精神科に行ったとしても「ストレスでしょう」と言われることは容易に想像がつきました。その為何か違う方法で心身が楽になる方法は無いかと考えていたのです。

そんな時昔整体を受けた経験や、以前東洋医学の本を読んだ経験から、「漢方ってどうだろう。漢方を処方してくれる医者っていないのかな」と思い、漢方専門医がいる病院を調べたのです。

 

 

5、漢方内科受診

ここで本題に入る前に、漢方治療の治療費についてお話しておきます。

結論から言うと漢方治療は自由診療保険診療どちらの病院もあります。やはり治療費の問題はとても大事なので、事前に保険適用しているかどうかを確認しておくといいと思います。(※私は保険診療です)

 

さて実際の診察ですが、漢方内科の診察は一般的な内科の診療とは少し違っています。まず初診時の問診表がものすごく細かく作られているのです。一般的な治療歴や現在の症状に加え、「どんな体質か」といった内容の問診までありました。

そして診察にも特徴的なものがありました。問診はもちろん、舌の様子、脈、顔色、お腹の触診等、体の様子を事細かに観察しているようでした。

 

漢方内科では体の状態、おおまかに「気」・「血」・「水」の過剰、不足、乱れを観察し、その人に合った漢方を処方します。

私の場合は気が不足していて、特にお腹の調子が悪かった為、お腹を中心に整えていく流れになりました。

そして漢方内科に通ううちに、100%とは言えずとも少しずつ調子が良くなっていきました。

 

 

6、東洋医学では養生が大事

ただ漢方専門医の治療を受け、そして漢方に関する知識を学ぶ中で、「漢方も大事だけど、病院以外の普段の時間こそが回復にとって大事なのかもしれない」と思い始めました。

「養生」という言葉がありますが、この言葉は東洋医学において重要なキーワードです。

私はこの養生という言葉に対して、栄養を取って、体を温かくして、しっかりと休養を取るというイメージを持っています。

私は失礼ながらこの「養生」はお年寄りに大切なものだと思っていたのですが、忙しい現代においては年齢は関係なく、全ての人にとても大切な概念のような気がします。

 

例えば私は昔からお腹が弱く、ストレスや寒さ、辛い食べ物等、ちょっとしたことでもすぐお腹を壊してしまいます。そんな私がいくら薬を飲んだところで、冷たいものをガブガブ飲んだりしていたら、「お前治る気あるの?」ってなりますよね。

若い時はあまり養生を意識しなくても大丈夫かもしれませんが、年を重ねたり、あるいは体調が悪い時は、この養生という概念を意識すると、少し生きやすくなるかもしれません。

 

 

7、根治というより日々のメンテナンス

私は漢方内科の先生に「私は何をもって治療のゴールとすべきが迷っています。個人的には就職してからしばらく経って、仕事に慣れた頃がその時期だと思うのですが」と聞いたことがあります。

すると先生は「漢方においてはゴールというのを決めなくてもいいと思いますよ。仕事だと目標設定は大事だけど、治療に関してはゴールを決めてしまうとプレッシャーがかかりますからね。それよりもその時々で漢方を調整していく感じがいいと思います」とのことでした。

 

それを聞いて「メンタルクリニックに通っていた時は、早く薬を減らしたいと思っていたけど、もういいか。働きながらでも病院行って、漢方ずっと飲み続けたっていいんだよな」と思いました。

「悪いところがあってそれを治す。そしてそれから行動する」。それももちろんいいですが、行動しながら漢方に頼るってのもいいのかなと思いました。

 

 

8、100%を目指すべきか?

改めて私は思うのです。100%の健康とは一体どんな状態を指すのでしょうか。

例えば「体のゆがみ」に関しては、このゆがみがあまりに酷い人は整体やカイロプラクティックに行くことで、ある程度健康になれるかもしれません。でも体のゆがみが全く無い人はいないのではないかとも思います。

 

皆それぞれのゆがみを持ちながら、何とかバランスをとって日々過ごしているのではないでしょうか。

同じように考え方の癖についても、認知のゆがみが全く無い人もいない気がします。

皆何かしらの考え方のゆがみのようなものを持っている。そして病気等の問題が発生した時に、私達はこのゆがみの修正を求められます。ですがこの認知のゆがみを改善すべく認知療法に長年取り組んでも、依然として苦しい状況にある人も多いと思います。

 

私も長年認知行動療法に取り組んだ経験がありますが、最近は認知のゆがみを0にすることが正しい目標設定ではないと思うようになってきました。なぜなら人間は機械で作られた均一の工業製品ではないからです。

 

 

9、十分頑張ってきた

私はこれまで元気になる為に様々なことに取り組んできました。その全てに少しずつ効果があったのかもしれませんし、その全てが決定打に欠けていたのかもしれません。

それでもあえて言えば、私はその時その時少しでも良い方向に行こうと頑張ってきました。人からは理解されずとも、ずっともがいてきました。

私はずっと頑張ってきた。例え結果に繋がらなくとも。

 

このブログを見ている方がいたとしたら、恐らくその人も辛く、苦しい状況の中にいるのかもしれません。でもその人だって少しでも良くなろうとあがいているからこそ、私のブログを見てくれているのだと思います。

もう皆充分頑張っている。そろそろ自分を責めるのは終わりにしたいですね。

 

 

10、最後に

かなり長文になってしまいましたが、今回は漢方治療についてまとめました。

私は漢方専門医に漢方を処方してもらっていますが、漢方自体は薬局で簡単に買う事が出来ます。

ただ薬局で漢方を買うことが悪いわけではありませんが、自分の体質や状態に合わせて適切に漢方を選ぶことは、非常に難しいと思います。

 

例えば「お腹をすぐに壊す」という症状一つとっても様々な原因があり、それによって合う漢方も違ってきます。

それに漢方は何となく副作用が少ないイメージがありますが、やはり漢方にも飲み合わせの注意や重篤な副作用の可能性もあります。

 

それでも今実際に体調が悪いのに、病院に行ってもなかなか原因が分からず、ストレスでしょうと言われてしまう。

そんな人は一度漢方専門医を頼ってみるのもいいかもしれません。

*1:「ココロとカラダの不調を改善する やさしい東洋医学」 ㈱ナツメ社

「はみ出す」感覚

皆さんこんにちは。もち丸です。

いやぁ、つくづく思いますがコロナ本当に邪魔ですよね~。行動するにもいちいちコロナが気にかかり、感染に敏感になっている私には、もはや気軽な外出は出来ない状態になってしまいました。

今は休日のマラソンと、ゼルダの伝説「ブレスオブザワイルド」が唯一の楽しみですね。

 

さて今日は「はみ出す感覚」というものについて述べていきたいと思います。

この「はみ出す感覚」は、私にとって行動する際の一つの指標のようなものでもあります。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、「はみ出す感覚」とは

私にとってこの感覚は、特に子供の頃の記憶が多いのですが、この感覚について話すのは少々気恥ずかしいです。

それは「初めて友達の家に泊まる」、「初めての施設に遊びに行く」、「友達だけで遠出する」等々、いつもと違う事をする時の、心細さやワクワク、ドキドキ、罪悪感等が混じった感覚のことです。

もちろんこの感覚は子供に限ったことではなく、大人でもいつもと違う行動をとるときに感じますよね。

私は最近この感覚を大事にしようと思うと共に、先に進む為にはこの感覚がヒントになるのではと感じる時があります。

 

とは言えこの感覚は、何も大きな行動をする時だけに感じるものではありません。

私は「いつもと違う道を散歩する」、「いつもなら家にいる時間に少し外に出てみた」時にも感じます。

何となく心細い、何となく気持ちいい、少し心が大きくなるような、何とも言えない感覚です。

私は最近は在宅が中心ですし、外出するのは母の病院への付き添いと日用品の買い物位です。

その為必然的に、「いつもと同じ行動範囲で、いつもと同じ行動」しかとっていません。

だからこそいつもとほんの少しでも違う行動をとると、この少しはみ出した感覚を感じ、昔を思い出したり、もっとこの感覚を大事にしたいなと思うのです。

 

 

2、学生時代のはみだし

私は学生時代、特に高校くらいまでは、母の目の届く(物理的な意味だけではない)範囲でしか行動していませんでした。

まぁ平日も休日も部活三昧だからという理由でもありましたが、元々色々な所に出掛けて行くタイプではありませんでしたし、たまに出掛けても何となく後ろめたい気がしていたのを覚えています。

一例を挙げると、例えば友達から泊りに誘われた時、それを母に伝えると大抵母の機嫌は悪くなります。(笑)

そうすると遊びに行く楽しさよりも、家で空気が悪い状態を避けたい気持ちの方が勝る為、外出を取り止め、行かないでいいような理由を作って自分を納得させていました。

 

つまりいつもの行動範囲でいる間は、不自由で不満はあるものの、家でのある意味での居心地の良さや親が守ってくれる状況がある程度保証されていたのです。

本来であれば今までの行動範囲から少し外に出たり、戻ったりを繰り返しながら、自分なりの心地よい行動範囲を作っていくのが正しい成長なのでしょうが、私はその行動範囲から出る億劫さや怖さを強く感じながら育ってきたのかもしれません。

 

大学に入ってからはさすがに自分の行動範囲で行動することが増えましたが、大学時代は強迫性障害が苦しかった時期でもありましたので、伸び伸びと行動範囲を広げることが出来なかったのが少し心残りでもあります。

 

 

3、大人になってからもはみ出せる

さて今の私ですが、ずっと家の中で行動していると行動範囲に変化が生まれず、「この時間にはこの行動」というように、時間軸においてもはみ出すことが無くなってきます。

でもこの前寝る前にふと思い立ってベランダに出て、風に当たりながらお月様を見て、家族の健康をお祈りしてみました。

すると私の「風呂に入った後寝るまでは外には出ない」といういつもの範囲から外れた、ほんの小さな解放感というか、心地よさを感じました。

 

人から見たらどうってことないことかもしれませんが、私にとってはいつもと違う行動をとったことによって、いつもと違う感情が浮かんだのです。「あ~、俺は多分もっと色々やれるな」と。

思えば新卒で働き始めて家を初めて出た時も、こんな心細さと解放感、ワクワクと怖さがないまぜになった感情を抱いたのを思い出します。

これから自分がどうなるのか怖くて仕方ありませんが、何というか自分の知らない世界が確実にあり、自分はもうそこに近いのかもしれないなと。

 

基本的に人は自信が無い時は、新たな行動から遠ざかろうとし、自信がある時は、新たな行動に向かう気がします。やはり行動するにも、例えば「知っている土地だから」とか、「体調が安定しているから」等のように、ある程度の土台を必要とします。

 

でもこのはみ出す感覚って、なにも子供の専売特許ではないはずです。

何歳になっても新たなチャレンジをすることは出来ますし、必要になる時はあります。特に大人になって行動や思考がある程度パターン化された人ほど、この「はみ出す」ということから遠ざかっているかもしれません。

別に旅行に行くとか、新しい習い事を始めるといった大きな変化でなくともいい。

たまには夜散歩してみるとか、休日昼間にビールを飲んでみる、買い物に行く時にいつもよりラフな格好をしてみる…

 

ちょっとしたことでも心は喜び、解放感を味わえる気がします。

 

 

4、調子が悪くてもはみ出せる!

私はずっと「今はその時ではない」と思い続けてきました。

旅行や高い買い物、デート等は、「就職したら」、「金銭的に落ち着いたら」というように、今はまだやれないけど、いつか落ち着いたらやろうと思ってきました。

それは今の自分にはそれらをやる価値がないということを言い続けてきたということでもあります。

 

でも思い返してみると、神経症でとても苦しい時にも、このはみ出す感じを感じたことは何度もありました。

それはリワークの人と飲みに行った時、車で図書館に行き調べものや勉強をした時、資格の勉強を始めた時等です。

その時は少し自分が成長したような、なにかちょっとした恥ずかしさと共に自分に自信が持てる気がしました。

今思うとそれは成長実感、そして自己肯定感を感じた時の、誇らしさや喜びのようなものだと思います。

 

一足飛びに何かが達成出来るわけではありませんし、何かを得られるわけでもありません。

それでもやっぱり「自分は出来る」という感覚は、病気になっても自分の中から消えてしまったわけでもないし、やっぱり自分はこの世界で何かをしていきたいという、自分の強い気持ちのあらわれでもあるようです。

 

 

5、最後に

今はコロナにより、何かと行動を制限せざるを得ない状況です。

物理的に行動を広げることは、正直今の私にとって難しいです。

でもコロナはもうすぐ落ち着くとはとても思えない、でもこのままでは本当に苦しい。

それなら今、この状態でも出来るわずかな「はみ出し」をしていくことが、次の自分の居場所に繋がっていくような気がします。

罪悪感を抱える事

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

とうとうオリンピックが終わってしまいましたね~。

でも終わりは次の始まりです。高校野球も始まりましたし、パラリンピックも開催されました。

 

開催の是非や影響について思う事もありますが、人がスポーツに真剣に打ち込む姿は本当に魅力的です。

それと去年オリンピックが延期になったことで、「もしかしたら来年は母とオリンピックは見れないかもしれない」という考えがあったので、今年母とオリンピックを楽しめたことは、一生の思い出になると思います。

改めてオリンピックよ、ありがとう。

 

さてここからが本題ですが、今日は「罪悪感」をテーマとしてみました。

この罪悪感、私もメチャメチャ感じますし、私の周りを見てみても罪悪感が本人を苦しめ、行動を縛っているケースが多いように思います。

そこで今回は自分のことやこれまで出会った人を参考にしながら、改めて考察してみました。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、罪悪感とは何か

私はこれまでずっと罪悪感を感じてきました。特に家族に対して感じることが多いです。それによって自分への自責が生まれます。

・「この年にもなって迷惑をかけて申し訳ない」

・「いつまでも心配をかけて申し訳ない」

・「穏やかな老後を奪ってしまい申し訳ない」etc....

 

他にもたくさんありますが、これらの罪悪感を持ち続けることによる影響はとても大きいです。

 

何かをやり遂げたりしても、「まだまだ足りない」「本当に自分がしないといけないことはやれてないから全然駄目だ」等、決して満たされることはなく、例え満足したとしても非常に脆い満足感でしかありません。

 

そして人に引け目を感じ、酷くなると他人を羨ましがったり妬んだりと、ろくなことになりません。そして「自分が持つことが出来なかったもの」を得るチャンスがある人を見ると、悔しかったり自分を責めてしまいます。

「なんで俺はあそこにいないんだ!」と怒りに近い感情を持つこともあります。

我ながらなんて自分勝手なんだと思います。

 

もちろんこの感覚は客観的なものではなく、主観的なものにすぎません。

その一例として思い出すのは、私が以前リワークプログラムに通っていた時のことです。

当時誰が見てもうらやむ立場、収入、環境を持っている人が、自分を責め、「全然足りない」と本気で言っているのです。そしてそれどころか私のことを「あなたは本当に凄い、尊敬します」と言うのです。

 

他の人からどんなに「あなたは充分やっているよ」、「いい出来だよ」と言ってもらっても、心からは受け取れず「本当に自分はまだ足りていないんだ」と思っている。

つまり今の自分を受け入れることが出来ていない、今の自分に「イエス」と言えていないのです。

 

 

2、結果か原因か

この罪悪感を感じる原因は本当に人によって違うのでしょう。

①「罪悪感を持つが故に精神的に追い詰められ、病気になる」人。

②「うつ病等の病気になった結果、症状として罪悪感を感じる」人...

 

①の場合は人との出会いやカウンセリングによって罪悪感が薄まり、結果苦痛が軽減されていくことがあると思います。

逆に②の病気の症状として罪悪感を感じている場合は、病気の治療により罪悪感が薄まっていくこともあると思います。

 

ただ①、②いずれの場合も沼にハマると「罪悪感を感じている自分をどうにかしないと!」となってしまう可能性があります。(私はそうです)

そうなると「罪悪感そのもの+罪悪感を捨てられない自分を責める」といった具合に、罪悪感の悪循環が強化されてしまいます。

 

私は昔パニック発作を起こしていた時期がありましたが、この時も「パニック発作を鎮めないと!」と思えば思うほど、パニック発作が酷くなってしまいました。意識が集中してしまうと、状態は強化されてしまうのです。

やはりメンタルヘルス不調に関しては「闘って力で抑えるやり方」は、無意味どころか逆効果になる可能性が大きいです。

少なくとも私には「罪悪感」を理詰めで解消することは、出来ませんでした。

 

大事なことはまずは諦めて、全部認めてあげることをスタートとすることなのかもしれません。どんなに受け入れがたくて、苦しくても。

それは「そのまま、変わらない苦しい今のままでいるしかない」ということではなくて、まずは「今自分は罪悪感を感じてるけど、それは仕方のないことなんだ」と、罪悪感を持ってしまう自分を許すということかもしれません。(簡単ではありませんが)

 

「罪悪感を感じている自分」と「罪悪感を消したい自分」の戦いを緩めたいですね。

 

 

3、罪悪感を手放さない自分?

でも罪悪感ってかなりしぶといですよね。例え人から「罪悪感を持たなくていいんだよ」と言われても、簡単に手放せるものではありません。

 

私自身の場合は、それはこれまで自分が思うような行動が出来なかったことが大きな要因だと思っています。

自分が思い描いていた、「本来の自分(神経症にならなかった自分)」が得ていたであろうもの(実際にはわかりませんが)に執着し、それを得ている人をうらやんだり、妬んだり…

そして何より思うように行動出来なかった、あるいはしてこなかった自分を責める…

 

以前神経症に苦しんでいた当時は、本当にきつかった...

毎日毎日が生き地獄で、良くなる気配も希望も見えない毎日でした。

苦しさは人と比較することは出来ないと思いますが、あの苦しさを乗り越えられる人はそんなに多くないのではないかと思う程の、本当に長く苦しい時期でした。

 

その意味では自分はその時期を乗り越え、ここまで来ることが出来た。

そしてフランクルの「苦悩を耐え抜いてきたことは業績である」という言葉にも救われました。

それでも得たことよりも得られなかったことに注目し、成し遂げたことよりも成し遂げられなかったことに注目する。執着し続ける。

 

この状態の時は視野が極端に狭くなっており、自分がその罪悪感をギュッと持ち続けている状態とも言えます。

人から見たら、「それで自分を責めるのは違うんじゃないか」と思うようなことでも、本人が心から納得出来ていなければ、その人のものにはなりません。

専門家のアドバイスや人からの言葉はきっかけにはなっても、結局最後にそれらの言葉を自分のものにし、納得することは自分にしか出来ないんです。

 

 

4、そもそも回復の定義とは

そもそもメンタルヘルス不調における「回復」とはどのような状態なのでしょうか。

例えばもう落ち込むことはない、同じことを何度も心配することが無い状態を「治った」状態とするならば、「治る」ことは恐らく永遠にないと思います。

私自身、何をもって治ったとするのか、治療のゴールとするのかは非常に難しい問題でした。それでもとりあえずのゴール、良しとする状態が不明確だと、もはや治療の為に生活することになってしまいます。でもそれでは本末転倒ですよね。

 

いわゆる普通の人だって、落ち込むこともありますし、体調が今一つのことは当然あります。

でも以前の私は(今もかも)、何か一つ、小さな体調の変化ですら、悪化の兆し、もしくは何かの病気の兆候じゃないかと、不安と恐怖に怯えていました。

頭では「誰だって体調が悪いときくらいあるさ」と思おうとしても、不安に引っ張られ、一日中体調のことを考えて過ごしていました。

 

その状態を打破するきっかけの一つは、「何か一つでも体調がおかしい時があると、心配になる。俺は少しの体調不良すらも、許せないのか?」という気付きでした。

でもそれも仕方のないことと言えば仕方のないことかもしれません。長きにわたり心気症と戦ってきて、ちょっとした体の異変を大きな病気と考えてしまう状態だったのですから。

 

でも私が改めて思うのは、体調回復に関してカウンセリングや投薬が大事なのは言うまでもありませんが、外の事柄との出会いも回復にとっては大事だということです

例えば仕事での達成感。「ありがとう、あなたのおかげで助かった」という言葉。自分を受け入れてくれる人との出会い...

これらは自分の中だけでは完結しません。必ず自分以外の外の要素が必要となります。

 

そして罪悪感に関しても、どこまでいけば自分を許せるのか。

例えば公務員になれたら満足するのか、難関資格を取得出来たら納得出来るのか、お金をたくさん稼いだら癒されるのか…(メッチャ欲しいけど!)

いずれにせよ自分の中での線引き、外との出会いに関しても、大事なのは納得感のような気がします。

 

 

5、納得するには

ここで話が少しずれますが、私は目に関して、ちょっと面倒な目を持っています。

片目が人工レンズなうえ左右差が大きい。これによって見え方の調整にとても苦労しています。とはいえ障がい者となるわけではありません。

ここで例に出すのは不適当かもしれませんが、例えば目が見えない人から見たら、私の状態は羨ましいものかもしれませんし、私の苦悩なんてぜいたくな悩みなのかもしれません。

でも私は「目が見えない人に比べたら幸せな方だ」と自分の悩みを過小化しないでおこうと思います。もちろん比較によって、自分が納得して前に進めるのならばそれでもいいのかもしれませんが。

 

私は「完全が10だとした場合の欠けた4の部分」を嘆き、「10持っている人を羨ましい、羨ましい」とこだわり続ける一方、10あるうちの1しか持ってない人が、その1を活かして立派に、受け入れて生きているのを見ると、「自分はなんてダメなんだろう」と自己嫌悪に陥ります。

 

繰り返しますが結局は自分が納得しているかどうかなんですよね...

そして納得の前には感謝か諦めがあるのかもしれません。でも「やだ、やだ」と一つのことにこだわっていたら、本当にネガティブなことにしがみついたまま、死ぬことになります。そう考えると怖くて仕方ありません。

 

 

6、俯瞰的視点を持ちたい

今いる状態から少しでも良い方向に行くにはどうしたらいいのでしょうか。

私はその一つの方法として、俯瞰的視点を育てたいと思っています。

例えば今自分がゴールの見えない巨大迷路に迷い込んでいるように感じたとしても、見学席等の高い位置から見ている人は、「あっちに行けばゴールがあるのに」と思うでしょう。

自分を俯瞰的に見ることが出来れば、「意外と出口は近いのかもしれないな」と気付けるかもしれません。

もちろんゴールが見えていても、そっちに進むのが怖いという時もありますが。

 

私はその第一歩として罪悪感を手放すのではなく、まずは「罪悪感を感じる自分を良しとしてあげよう」と思います。

 

人間は一人で何でも解決出来る程、強くも器用でもないと思います。そして私達人間は昔から哲学や音楽、絵画等、自分の外から励ましや力をもらってここまで来たのだと思います。

今はカウンセリングやセラピー等選択肢は増えましたが、他から力を借りることは人間が昔からずっとやってきた当たり前のことですよね。

 

私はちゃんと自分の足で立つ意志を持ち、多くの方の力を借りて生きていきたいと思います。

フランクルと自分の神経症

こんにちは、もち丸です。

最近急に暑くなってきましたね。最近は気温差のせいか体調は今一つ。早く精神的に落ち着きたい今日この頃といった感じです。

 

さて本題ですが今私は精神科医フランクルの本にハマっていて、5冊程読み終えたところです。

以前別記事でアドラー心理学に関する感想を書きましたが、今回はこのフランクルの考えを基に、自分の神経症発症やこれまでの流れを整理してみたので、どうぞご覧くださいませ。

 

f:id:yoneson:20200911114204p:plain

 

1、私とアドラー心理学

私は以前アドラー心理学に関する本を何冊か読み、当時行き詰っていた自分の状況を変えるきっかけを得ました。なかなか厳しい考えでしたが、当時は興奮を感じながら本を読み進めたことを今でも覚えています。

ただここで言っておきたいのは、アドラー心理学も数多くある心理学の一つであり、アドラー心理学が絶対に正しいというわけではないということです。

 

もちろん私がアドラー心理学を正しく理解出来ていない部分も多いです。それに例え劣等感がその人の神経症の大きな要因だとしても、アドラー心理学を正しく理解した医師やカウンセラーは、「あなたの神経症は劣等感が原因です。そして症状を作ることで自分を守り、状況を操作しているんですよ」等とは絶対に言わないでしょう。

恐らくその医師達は、患者に自分の状況を適切に理解してもらうと同時に、適切な励ましによって患者本人が人生の課題に取り組めるよう、サポートしていくと思います。

 

私個人の話で言えば私はアドラー心理学を読んだ時、「そう、これこれ!」と自分の状況を理解出来た面白さと同時に、自分の情けなさを強く感じました。

そしてこれから取り組まなければならないであろう課題を前に、大きな不安を感じました。

 

そのような意味では今症状が強く出ている人には、アドラー心理学の本はあまりお勧めしません。(笑)

そこで今回はフランクルを読んだ今、自分の神経症に対して再度考察してみました。

 

 

2、フランクル神経症

私は17歳の時に神経症になりました。発症のきっかけは「眼鏡を作ったこと」と、片頭痛の前兆である「閃輝暗点が出たこと」です。

yoneson.hatenablog.com

詳細は上記記事で述べていますが、当時の自分は「常に目と自分の視界に注目している」状況にありました。

フランクルはこのような状況について、「人間とは何か 実存的精神療法(春秋社)」で次のように述べています。

 

・「過度の意識と過敏な自己観察がそれ自体ですでに障害をもたらすことはよく知られている」

・「歩行者は目的地に目を向ける代わりに自分の歩く注意を向けすぎると、そのとたんに、つまずいて転ぶであろう」

 

 

その一文を読んだときに、「まさにこれだ!」と思いました。

まさに私もそうでした。過度の意識の集中、そして予期不安によって悪循環に陥っていったのです。

 

ただ私はフランクルの言う神経症的性格だったとは思いますが、神経症的性格でありながらも、神経症を発症しない人もたくさんいます。

それは「病気にならない人が強い」とか、「切り替えがうまい人は神経症にならない」というような単純な事ではないように思います。

何かしらのトリガー(引き金)によって、神経症の方向に進んでしまうことは、誰にでも起こりうることです。

 

その意味では当時の自分にはどうしようもなかったのかもしれません。あまり昔の自分を責めたくはないですね。

 

 

3、苦悩は業績である

私にとっては20代前半から30代前半は、とてつもなく苦しい時期でした。

出世や結婚等前に進んでいく友人との差を感じ、自分から距離をとったこともありました。そして思うように動けない自分を情けないと思い、ずっと責め続けてきたのだと思います。

 

でも今思うと動けないなりに精一杯やってきたのです。資格取得や勉強、アルバイト…

そしてリワークプログラムでの多くの人との出会いの中で、自分の考えを表現する大切や難しさ、苦しさを共有出来た時の喜び、想像力や共感力等、多くのことを学びました。

就職活動では表立ったPRにはならないことではありますが、それでも間違いなくその時その時少しでも良い方向に行こうと、もがいてきた自分の歴史です。それはもしかしたら、人とはだいぶ違う形の私の青春なのかもしれません。

 

「私は何も成し遂げてない、口だけの人間だ」と自分を過小評価してしまうことも多いです。

でもフランクルはその苦悩に耐えたことを「業績」だと言ってくれるのです。

そして人間は意味を求める存在であり、意味を見出すことが出来れば、人は自ら苦悩を引き受けることが出来る存在なのだと。

 

よく「自分を受け入れる」とか「自分を認める」という言葉を目にしますが、これってとても難しいことですよね。

でもそれが出来たことによって、自分の苦しかった時期を新たな視点で見つめ直すことが出来たとき、その苦悩で満ちていた時期の持つ意味がガラッと変わるかもしれません。

このような苦悩に対しての解釈や人間だけが持つ力に対する考察から、フランクルが唱える心理学技法「ロゴセラピー」は、逆境の心理学とも言われるそうです。

 

 

4、苦悩に意味を見出す

さて問題はこれからどうするかということです。

最近は就活に苦戦している事に加え、母の体調があまり良くないことから、結構キツイです。

ここ2、3ケ月は抗がん剤の切り替えや、足に血栓が出来て別の病院にかかるなど、結構バタバタしていました。

自分のことだけでもギリギリなのに母のこともあって、精神的にはギリギリです。加えてコロナによる様々な影響もあり、バランスが上手く取れていない状況ですね。

 

そんな中今自分が大切にしている言葉は、「千里の道も一歩から」「ひとつの幸せのドアが閉じる時、別のドアが開く。しかし私達は閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない(確かアンネフランク)という言葉です。

 

今がどんな状況だとしても、一足飛びに何かを得ることは出来ない。今出来ることはわずかでも小さな一歩を積み重ねるしかありません。

確かに実現出来なかったことや得られなかったことには後ろ髪をひかれますし、後悔も大きいです。でもそこにこだわってしまうと新しいチャンスに気付かず、「あれさえなければ」、「もう少し若ければ」と後悔や嫉妬したまま年を重ね、死んでいく事になります。

そう考えると恐ろしくてたまりません。「それは嫌だ!!」と思います。

 

 

5、苦悩の中で思う事

でも最近よく思うのです。

私は母が病気になって良かったとは絶対に思いません。でも今良くも悪くも家族と、とても濃い時間を過ごしています。

そして何気ない会話や口喧嘩の中で、大きな幸せを感じることもあります。ただ「なんでこんなに自分は気付くのが遅いんだ」と自責の念にかられることもセットですが…

 

ここでフランクルの話に戻りますが、フランクルは「人間は意味を求める存在だ」と繰り返し言っています。そして自分が人生から何を期待出来るかではなく、人生が自分達に期待しているとも言っています。人生は思うようにいくことばかりではないが、「今、この状況でどのような態度をとるか」という事を、私達は常に人生から求められていると。

 

このような言葉が、地獄のような強制収容所を生き抜いたフランクルから出てきたと思うと、とても意味深い言葉に感じます。

あの地獄のような環境、身体的自由が無い状況でも、状況に対してどのような態度をとるかという自由は最後まで残されているというのです。

同じ病気の人でも、それに対してどのような態度をとるのかは個人個人によって違います。それは恐らく性格の違いとか強い弱いというような単純なものではなく、正にその人の姿勢なのだと思います。

とは言え昨日まで全てのことから逃げることを前提にしていた人が、今日急に全てに立ち向かうことはやっぱり出来ませんよね。

 

本当に小さな一歩一歩の積み重ねなのでしょうね。分度器の角度で表すと今日、明日の行動の方向性が一度変わるだけでも、5年後、10年後の立ち位置は全く違うものになるでしょう。

もちろん何もかも嫌になって、動けないときもありますが、少しずつフランクルの言う苦悩への勇気を持ち、苦悩に耐えてきたこれまでの自分と共に、良い方向に進んでいきたいと強く思います。

 

※参考文献

①「人間とは何か 実存的精神療法」 ㈱春秋社

②「〈生きる意味〉を求めて」 ㈱春秋社

随筆 「苦悩の意味」

こんにちは。もち丸です。

今回は気持ちの整理としての記事です。その為文体も「ですます調」ではなく、思ったままの言葉として書いていきます。

普段と違い文脈整理も程々なので、読みやすさはあまり考えません。(笑)

 

 

= = = = = = =

辛い、本当に苦しい。

どこから進めればいいのかわからない。誰か教えてくれ。

 

向き合うことは出来たけど、その先に進めない。

いや、もしかしたら本当に怖いこととはまだ向き合えていないのかもしれない。全てと向き合ったうえで進む事が出来ている人はいるのだろうか…

 

でもこれ以上向き合っても徹底的に情けない自分しか出てこない気がする。振り返って向き合ってきて、わかったことや前に進む事が出来た部分は滅茶苦茶大きい。でもそれ以上に出来ていない事、足りないと思う事の方が多すぎて、とても釣り合いが取れない気がする。

 

今自分に必要なことはなんだろう。向き合う事?動くこと?認めること?相談する事?バイト?覚悟?…

 

でも今はコロナがうっとうしい。行動量を増やしたいけど、常にコロナが邪魔をする。自分一人だけならまだいいけど、俺は家族と同居している。しかも重度の喘息持ちである父とがん治療中の母。この二人に絶対にうつすわけにはいかない。もしうつしたりして何かあったとしたら、一生自分を責め続けることになる。「あのとき自分が~しなければ」と。

 

幸い母は「もしあなたからうつったとしても、絶対にあなたのせいじゃない。罪悪感を持つ必要はない」と言ってくれてる。 

でも本当にそうなったとしたら母に言われたとしても、自分が自分を許せないと思う。

そんなことを考えると、「早くしないと」と思うけど、行動にブレーキをかけてしまう。

 

でもそれももしかしたらコロナを理由に使っているんじゃないか?

「自分が怖いと思う気持ちを正当化する為に、コロナや母の病気を理由にしているんじゃないか?」とも思ってしまう。

そんなことを考えると怖くて仕方がない。幸い今は自分の貯金でなんとかやりくり出来ているけど、今家族に何かあったら自分はどうなるんだろう。

いや、これまでだって家族がいたから、何とか病気の時だって生活出来ていたんだ。一つ違っていたら、自分は野垂れ死んでいたのかもしれない。

そんなことを考えると、とてつもなく自分が情けない存在のように思えてくる。

 

動きたい、でも動くのが怖い。アクセルを強烈に踏み込むと、同時にそれ以上にブレーキを踏みこんでしまう。ならば今の自分が先に進む為には、アクセルを踏み込む強さを更に強めることじゃなくて、ブレーキを弱めることなんじゃないか。アクセルを踏み込む強さは既にあるわけだから、ブレーキを緩めれば車の前に進む力は今より出るだろう。

 

今の状況で出来ることはないか?

今の状況で一歩でも進むこと。ブレーキを緩めてやることは何かないのか?

 

まず浮かぶのがネットを使って行動範囲を広げる事。自分の気持ちを大切にすること。そして浮かんだことをおっかなびっくりでもいいからやってみること。

常に自分を責め続ける自分の声が今の自分をストップさせようとするが、それでも一歩だけでも今までの範囲を踏み越えてみる事。これをやっていくしかない。

そして0.01でもいいから昨日の自分がやらなかったことをやってみる。0.01の行動は次の0.02の行動を始める為の呼び水となる。その繰り返しでしか自分の人生を作っていくことは出来ないのだろう。

 

0.01の新たな行動なら絶対に出来る。

 

もうあまり時間的猶予もないけど、ここからやるしかない。そう思うとこれまでの自分は様々なことを乗り越えてきたけど、出来なかったこと、得られなかったことが悔しい。

 

でもこの前読んだフランクルの「人間とは何か」の一節。

 

「その問題を恥ずべき神経症としてではなく、人間的な問題として受け入れるようになる」という言葉。これには本当に救われた。

自分のこれまでが救われる、報われることはくるのだろうか。今回は綺麗な言葉ではまとめたくない。

 

本当に皆悩んでいるのだろうか?自分だけが進めていない気がする。

自分以外の皆が凄い人間に見える。自分は自分を認めてあげられず、責め続けている気がする。

でもそんな苦しいことはもう終わりにしたい。

自分の中から見つけ出すことが正解なのか。それとも外との繋がりによって見出すことが正解なのか。コロナによって外との繋がりが薄まっているけど、そんな状況でも出来ることは何だろう。

なぜ自分にブレーキをかけているのだろうか。コロナと家族の病気は間違いなくある。それは仕方ない。でも心理的なブレーキも間違いなくある。

怖さ、臆病さ、劣等感、恥の意識、プライド….

 

諦めたくない。自分は100%を望んでいる。100%の安心、完成度。そういう意味で言えば自分は間違いなく神経症的性格なのだと思う。でもフランクルはそういったものを責めないし、運命的なものとして変えられないものとも言っていない。

さてどうするか…

 

でも本を読み進めていくと、ちょっとずつ自分の理解が進む。知的理解だけでは解決しない問題はたくさんあるけど。

自分が100%納得すること、納得出来る人生、確実さを追求すると、自分の人生の持ち時間がどんどん無くなってしまうことはわかった。

 

バイト。でも今はコロナ感染リスクを減らしたい。じゃあネット使ってできるバイトは?うーん、やったことないし不安だし。

自分はなんて甘ちゃんなんだろう。また自分を責めているぞ。このグルグルから抜け出すには、そして少しでもいい循環に入っていくには、今何をしたらいいのか。

 

一気に考えると、全てが怖くて一歩も動けない。一個だけやろう。一個だけならやるのは楽勝だ!

失意の中で耐え抜き悩んできた時間なら、そんじょそこらの人には負けないと思う。

俺になら出来る!!